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ここが浄土のなむあみだぶつ

南無はあみだの名号で、
阿弥陀仏はなむの名号で
これがさいちがなむあみだぶつ
  -これが才市がなむあみだぶつ

わしが聞いたじゃありません、
わしが聞いたなありません。
こゝろにあたるなむあみだぶつ、
いまはあなたに打たれ取られて。

わしが阿弥陀になるじゃない、
阿弥陀の方からわしになる。
なむあみだぶつ。

わしのこころは、あなたのこころ、
あなたごころが、わたしのこころ。
わしになるのが、あなたのこころ。

お慈悲も光明もみなひとつ。
才市もあみだもみなひとつ。
なむあみだぶつ。

おやさまはわしがひのてのなかにすみ、
なむあみだぶつと申すおやさま。
  -親様(阿弥陀)は私が火(煩悩)の中に
   いる時にもそこにいる。いつも私と一緒にいるが、
   親様は煩悩の炎には燃やされない、
   炎が燃えるごとに、なむあみだぶつ、と唱えてくれる。

妙好人、浅原才市の書いた口あい、と言われる詩(うた)です。
妙好人というのは、浄土真宗の門徒さん、
在俗の信仰者で、信仰に篤い、至高の人間を言います。
1850年、石見の国(島根県)に生まれ、
船大工として働き、九州に出稼ぎにも行きました。
石見に戻り、50過ぎからは下駄職人となりました。
下駄を削る時に出る鉋屑(かんなくず)に
口あいを書きとめ、書き溜まった詩は七千に上るそうです。

佛と自分を対峙させていない、二者が一人。
佛が自分で、自分が佛、だと上記の詩で分かります。
と、拙い私の解説よりも、
詩を味わってください。

慚愧のごゑんにあうときは、
ときもきもあさましばかり、
これがくわんぎのもととなる。
なむあみだぶのなせるなり。

この法は慚愧法、ざんぎ法なら歓喜法、
くわんぎ法ならなむあみだぶつ。

  -浅ましい凡夫なので慚愧のご縁に
   あいますが、あうという、この自覚が
   喜びのもととなります。
   慚愧と歓喜は同一です。

どをりりくつを聞くぢゃない、
あぢにとられて、あぢをきくこと。
なむあみだぶつ。

凡夫で聞くぢゃない、凡夫はばけもの。
あなたわたしのこころにあたる。

   -聞く、というのは浄土真宗で最重要なのは
   聞法です。弥陀の声を聞く、ということ。
   才市は四六時中、熱心に耳を傾けていたのですね。

わたしゃ、あなたにめのたまもろて、
あなた見るたま。
なむあみだぶつ。

   -目のたまもろて、

まいらせて極楽いただく、なむあみだぶつ。
この娑婆でいただくしんじんの月。

世界もぐちで、わしもぐちで、あみだもぐちで、
どうでもたすけるぐちのおやさま。
なむあみだぶつ。

  -禅宗の、衆生病むが故に我病む、と同じですね。
  愚痴をどうこうしろ、とは言わない。愚痴のままで
  助かるんだ。

才市どこが、浄土かい。
ここが浄土の、なむあみだぶつ。

ごめにちは、さいちがごめにちで、
これがさいちか、なむあみだぶつ。

今日は11月28日、親鸞聖人の祥月命日です。
浄土真宗開祖の命日ですが、その命日は
才市の命日でもあると詩っています。
2人は明らかに違う人物ですが、
才市の霊性直覚の上で、聖人は才市となった。
聖人が、「これが才市か」、才市なのか、と言っている。
と、ここはこれで良いと思いますが、
別の解釈がありましたら、お教えください。

ひたすら阿弥陀の声を聞きながら鉋を削った、
才市はいつしか阿弥陀として
下駄を造っていたのでしょう。

親鸞聖人がひたすらに、農民と共に
鍬を持って田畑を耕したように。

そこには理論も概念もない、
阿弥陀と共に働く(阿弥陀となって働く)
命があるだけで。
  




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