2021.11.29
随分と昔の記事を、再度、エントリといたします。
「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人
殺せといわんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にても
かないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて
殺さぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人を殺すことも
あるべし」
親鸞聖人(1173~1262)が生きたのは貴族から武家の政権に
変わった鎌倉時代の初期、不穏な時代でしたので、
殺す殺さぬは、あり得たことです。今でもあり得ることですが、
現代でこういう事が起こったら一大事です。
ヨーロッパでは現在、死刑はありませんが、これは
今まで散々惨いことをして来たための反動なのではないでしょうか。
「日本には死刑がある」と言うと、
「イタリアにも必要だ」と言う人もいます。
犯罪に関して、人権尊重を謳うなら、
先ず被害者の人権を考えるべきだと思うのです。
被害に遭った方達の身になる事が最重要ではないですか。
残念ながら当然ながら私は死刑肯定論者です。
「罪と罰」のようにやむなく殺害してしまった、という事件は今日では
少ないでしょう。
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲も多く、いかり、
腹立ち、嫉み、妬むこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで
とどまらず」
恥ずかしながら身に詰まされる言葉です。
外の世界のことではなく自分の内なる世界です。
「罪業もとより形なし 妄想転倒のなせるなり、心性もとより清けれど
この世はまことの人ぞなき」
と、納得します。それで、
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」
と、希望を持つわけです。私個人のことです。
内面世界のことなので、これを人間が生きるための秩序である法律と
結びつけるのは理不尽です。
「安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし。本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき」
と、信仰をいよいよ深め、
「宝林宝樹微妙音 自然清和の伎楽にて、哀婉雅亮すぐれたり
清浄楽を帰命せよ」
(宝林宝樹みみょうおん じねんしょうわの、ぎがくにて
あいえんがりょうすぐれたり しょうじょうがくを、きみょうせよ)
浄土の宝の樹々が歌う音楽(悟りに至った人の説法)は、
妙なる清らかな音楽のように、説く側にも聞く側にも、
心地よく澄んで美しく鳴り響く。
このような音楽が気持ちの底に染み透って来ればなぁ、と耳を澄ませたり
してみます。
破闇満願 はあんまんがん
光が無明長夜の闇を破り、衆生の願を満たす。願いと言うのは
私の個人の都合による願いではなく阿弥陀如来の願い、
則天去私、生命の法則に適った願いです。
ゲーテが亡くなる前に「もっと光を!」と言いました。
この場合の光、を未だに良く把握出きません。
あるいは聖人と同じ意味合いでの光なのかもしれません。
「一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし」
親鸞聖人 田植え歌
五劫思惟の苗代に 兆歳永劫のしろをして 雑行自力の草をとり
一念帰命の種おろし 念々相続の水流し 往生の秋になるぬれば
実りを見るこそうれしけれ
お百姓さんと共に田畑仕事をなされた聖人、禅は武士の仏教で
浄土真宗は農民の仏教と言われました。
「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人
殺せといわんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にても
かないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて
殺さぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人を殺すことも
あるべし」
親鸞聖人(1173~1262)が生きたのは貴族から武家の政権に
変わった鎌倉時代の初期、不穏な時代でしたので、
殺す殺さぬは、あり得たことです。今でもあり得ることですが、
現代でこういう事が起こったら一大事です。
ヨーロッパでは現在、死刑はありませんが、これは
今まで散々惨いことをして来たための反動なのではないでしょうか。
「日本には死刑がある」と言うと、
「イタリアにも必要だ」と言う人もいます。
犯罪に関して、人権尊重を謳うなら、
先ず被害者の人権を考えるべきだと思うのです。
被害に遭った方達の身になる事が最重要ではないですか。
残念ながら当然ながら私は死刑肯定論者です。
「罪と罰」のようにやむなく殺害してしまった、という事件は今日では
少ないでしょう。
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲も多く、いかり、
腹立ち、嫉み、妬むこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで
とどまらず」
恥ずかしながら身に詰まされる言葉です。
外の世界のことではなく自分の内なる世界です。
「罪業もとより形なし 妄想転倒のなせるなり、心性もとより清けれど
この世はまことの人ぞなき」
と、納得します。それで、
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」
と、希望を持つわけです。私個人のことです。
内面世界のことなので、これを人間が生きるための秩序である法律と
結びつけるのは理不尽です。
「安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし。本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき」
と、信仰をいよいよ深め、
「宝林宝樹微妙音 自然清和の伎楽にて、哀婉雅亮すぐれたり
清浄楽を帰命せよ」
(宝林宝樹みみょうおん じねんしょうわの、ぎがくにて
あいえんがりょうすぐれたり しょうじょうがくを、きみょうせよ)
浄土の宝の樹々が歌う音楽(悟りに至った人の説法)は、
妙なる清らかな音楽のように、説く側にも聞く側にも、
心地よく澄んで美しく鳴り響く。
このような音楽が気持ちの底に染み透って来ればなぁ、と耳を澄ませたり
してみます。
破闇満願 はあんまんがん
光が無明長夜の闇を破り、衆生の願を満たす。願いと言うのは
私の個人の都合による願いではなく阿弥陀如来の願い、
則天去私、生命の法則に適った願いです。
ゲーテが亡くなる前に「もっと光を!」と言いました。
この場合の光、を未だに良く把握出きません。
あるいは聖人と同じ意味合いでの光なのかもしれません。
「一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし」
親鸞聖人 田植え歌
五劫思惟の苗代に 兆歳永劫のしろをして 雑行自力の草をとり
一念帰命の種おろし 念々相続の水流し 往生の秋になるぬれば
実りを見るこそうれしけれ
お百姓さんと共に田畑仕事をなされた聖人、禅は武士の仏教で
浄土真宗は農民の仏教と言われました。
2020.11.29
よろこびわ、ふしぎなもの、
わしとあみだと、なむあみだぶつ。
ゑゑゑな(いいな)、
せかい、こくう(虚空)がみなほとけ。
わしもそのなか、なむあみだぶつ。
わしのこころと をやさま(親様)わ
こころひとつ なむあみだぶつ。
わしが阿弥陀になるじゃない、
阿弥陀の方からわしになる。
なむあみだぶつ。
お慈悲も光明もみなひとつ。
才市もあみだもみなひとつ。
なむあみだぶつ。
親様とは阿弥陀仏のこと、
妙好人は在俗の真宗門徒さんで、
16世紀以来、多数生まれました。
女性妙好人も少なからずいます。
浅原才市(さいち)も妙好人と呼ばれる1人で、
石見の国(島根県)に生まれ、
船大工として働き、九州に出稼ぎにも行きました。
石見に戻り、50過ぎからは下駄職人となり、
下駄を削る時に出る鉋屑(かんなくず)に
口あいを書きとめ、書き溜めた詩は七千に上るそうです。
口あいというのは才市の詠んだ詩(うた)のことです。
彼は、嘉永3年 1850に生まれ、昭和7年 1932年まで、
正しく阿弥陀如来と共に生きました。
妙好人は、世俗に生きながら信仰に篤い人達、
白蓮華のように美しい、
泥の中に根を張っていても、清浄な花を咲かせる。
キリスト教の聖人に相当するかもしれません。
しかし、聖人は世俗を知っていても、
世俗の中にては生きていません。
うちのかかあの ねがおを みれば
地獄の おにに そのまんま
うちの家には おにが二匹おる
男鬼に 女鬼
あさましや あさましや
夫婦喧嘩をしたこともあったのでしょうね。
ある牧師さんの息子に生まれたキリスト教徒がいます。
名前は岡林信康。
後に牧師さん稼業を捨てますが、
彼の作った詩に思わず笑ってしまいました。
ネットで知った彼の詩:
ある日、聖なる宗教家
信者を集めて
こう言った
この世で
我慢をしていれば
きっと天国行けまっせ
ウソこくなったら
この野郎!
こきゃあがったな
この野郎!
見てきたような
ウソこくなよ
聖なる神の使者 ♪
ありがたや
死んでまいる浄土じゃないよ
生きてまいるお浄土さまよ
なむあみだぶにつれられて
ごおんうれしや なむあみだぶつ
才市や何処におる
浄土もろうて娑婆におる
これがよろこび なむあみだぶつ
才市どこが、浄土かい。
ここが浄土の、なむあみだぶつ。
わしとあみだと、なむあみだぶつ。
ゑゑゑな(いいな)、
せかい、こくう(虚空)がみなほとけ。
わしもそのなか、なむあみだぶつ。
わしのこころと をやさま(親様)わ
こころひとつ なむあみだぶつ。
わしが阿弥陀になるじゃない、
阿弥陀の方からわしになる。
なむあみだぶつ。
お慈悲も光明もみなひとつ。
才市もあみだもみなひとつ。
なむあみだぶつ。
親様とは阿弥陀仏のこと、
妙好人は在俗の真宗門徒さんで、
16世紀以来、多数生まれました。
女性妙好人も少なからずいます。
浅原才市(さいち)も妙好人と呼ばれる1人で、
石見の国(島根県)に生まれ、
船大工として働き、九州に出稼ぎにも行きました。
石見に戻り、50過ぎからは下駄職人となり、
下駄を削る時に出る鉋屑(かんなくず)に
口あいを書きとめ、書き溜めた詩は七千に上るそうです。
口あいというのは才市の詠んだ詩(うた)のことです。
彼は、嘉永3年 1850に生まれ、昭和7年 1932年まで、
正しく阿弥陀如来と共に生きました。
妙好人は、世俗に生きながら信仰に篤い人達、
白蓮華のように美しい、
泥の中に根を張っていても、清浄な花を咲かせる。
キリスト教の聖人に相当するかもしれません。
しかし、聖人は世俗を知っていても、
世俗の中にては生きていません。
うちのかかあの ねがおを みれば
地獄の おにに そのまんま
うちの家には おにが二匹おる
男鬼に 女鬼
あさましや あさましや
夫婦喧嘩をしたこともあったのでしょうね。
ある牧師さんの息子に生まれたキリスト教徒がいます。
名前は岡林信康。
後に牧師さん稼業を捨てますが、
彼の作った詩に思わず笑ってしまいました。
ネットで知った彼の詩:
ある日、聖なる宗教家
信者を集めて
こう言った
この世で
我慢をしていれば
きっと天国行けまっせ
ウソこくなったら
この野郎!
こきゃあがったな
この野郎!
見てきたような
ウソこくなよ
聖なる神の使者 ♪
ありがたや
死んでまいる浄土じゃないよ
生きてまいるお浄土さまよ
なむあみだぶにつれられて
ごおんうれしや なむあみだぶつ
才市や何処におる
浄土もろうて娑婆におる
これがよろこび なむあみだぶつ
才市どこが、浄土かい。
ここが浄土の、なむあみだぶつ。
2018.11.28
11月28日は親鸞聖人の祥月命日です。
バーソさんが「出家とその弟子」をブログ記事で
2回連載でお書きになっていました。
親鸞(ご出家)と唯円(親鸞の弟子)との人間劇(人間愛)、
悟りを、倉田百三(ひゃくぞう)が戯曲形式で書いたものです。
歎異抄第二章から
おのおの十余か国のさかいをこえて、
身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう
御こころざし、ひとえに往生極楽のみちを
といきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、
また法文等(ほうもんとう)をもしりたるたらんと、
こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、
おおきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしきが学生(がくしょう)たち
おおく座せられてそうろうなれば、
かのひとにもあいたてまつりて、
往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して、
弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに
別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもって存知せざるなり。たとい
法然上人にすかされまいらせて、
地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、
仏になるべかりける身が、念仏をもうして、
地獄にもおちてそうらわばこそ、
すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。
いずれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし。
バーソさんが「出家とその弟子」をブログ記事で
2回連載でお書きになっていました。
親鸞(ご出家)と唯円(親鸞の弟子)との人間劇(人間愛)、
悟りを、倉田百三(ひゃくぞう)が戯曲形式で書いたものです。
歎異抄第二章から
おのおの十余か国のさかいをこえて、
身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう
御こころざし、ひとえに往生極楽のみちを
といきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、
また法文等(ほうもんとう)をもしりたるたらんと、
こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、
おおきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしきが学生(がくしょう)たち
おおく座せられてそうろうなれば、
かのひとにもあいたてまつりて、
往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して、
弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに
別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもって存知せざるなり。たとい
法然上人にすかされまいらせて、
地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、
仏になるべかりける身が、念仏をもうして、
地獄にもおちてそうらわばこそ、
すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。
いずれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし。
2017.11.28
第一章
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて
往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつ
こころのおこるとき
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず
ただ信心を要とすとしるべし
そのゆえは罪悪煩悩熾盛の衆生をたすけんがための
願にてまします
しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず
念仏にまさるべき善なきゆえに
悪をもおそるべからず
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと
阿弥陀仏の誓われた願い、言葉で言い尽くすことの出きぬ
「誓願不思議」に助けられて
「真実に生きよ」という阿弥陀仏の願いに呼応し
阿弥陀如来の世界で生きようと一念発起する時に
限りない光と命に取り込まれ
迷い苦しむことはない。
老いも若きも、善人も悪人をも
弥陀は選ばない、
弥陀を信じる計らいのない真の心を
持つことが重要なのです。
弥陀の誓いとは
自分が生きるために他の命を殺し
他の人生を妨げ、
常に身と心を煩わして悩む衆生を救おうという願いです。
この願い(本願)を疑わずに信じるには
あらゆる善意と、
諸悪へのこだわりを恐れないでください。
阿弥陀仏の誓いを妨げるほどの悪はないのだから。
「歎異抄 たんにしょう」は親鸞聖人の直弟子である
唯円が聖人の言葉を書き写したものだ、
と言われています。
倉田百三の「出家とその弟子」で
ご出家さま(親鸞聖人)と弟子の唯円が登場する
あの唯円の原型となった僧でしょう。
親鸞亡き後に、唯円が歎きました。
人はそれぞれ十人十色の信仰を持っている。
それぞれの信仰が異なっている
それはおかしい、人間の持つ信心というものは
唯一つであるはずだ、と。
親鸞聖人は人間の純粋な信仰が人を動かし
人を救う唯一の原理だと見出しました。
宗教は人間の都合で変えられてしまいますが、
キリスト教も仏教も、イスラム教も、
恐らく神道も、信仰というのは同一で
唯ひとつのものだと考えています。
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて
往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつ
こころのおこるとき
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず
ただ信心を要とすとしるべし
そのゆえは罪悪煩悩熾盛の衆生をたすけんがための
願にてまします
しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず
念仏にまさるべき善なきゆえに
悪をもおそるべからず
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと
阿弥陀仏の誓われた願い、言葉で言い尽くすことの出きぬ
「誓願不思議」に助けられて
「真実に生きよ」という阿弥陀仏の願いに呼応し
阿弥陀如来の世界で生きようと一念発起する時に
限りない光と命に取り込まれ
迷い苦しむことはない。
老いも若きも、善人も悪人をも
弥陀は選ばない、
弥陀を信じる計らいのない真の心を
持つことが重要なのです。
弥陀の誓いとは
自分が生きるために他の命を殺し
他の人生を妨げ、
常に身と心を煩わして悩む衆生を救おうという願いです。
この願い(本願)を疑わずに信じるには
あらゆる善意と、
諸悪へのこだわりを恐れないでください。
阿弥陀仏の誓いを妨げるほどの悪はないのだから。
「歎異抄 たんにしょう」は親鸞聖人の直弟子である
唯円が聖人の言葉を書き写したものだ、
と言われています。
倉田百三の「出家とその弟子」で
ご出家さま(親鸞聖人)と弟子の唯円が登場する
あの唯円の原型となった僧でしょう。
親鸞亡き後に、唯円が歎きました。
人はそれぞれ十人十色の信仰を持っている。
それぞれの信仰が異なっている
それはおかしい、人間の持つ信心というものは
唯一つであるはずだ、と。
親鸞聖人は人間の純粋な信仰が人を動かし
人を救う唯一の原理だと見出しました。
宗教は人間の都合で変えられてしまいますが、
キリスト教も仏教も、イスラム教も、
恐らく神道も、信仰というのは同一で
唯ひとつのものだと考えています。
2016.11.28
Inno alla carità
Se anche parlassi le lingue degli uomini e degli angeli,
ma non avessi la carità,
sarei un bronzo risonante o un cembalo squillante.
Se avessi il dono della profezia
e conoscessi tutti i misteri e tutta la scienza
e avessi tutta la fede in modo da spostare le montagne,
ma non avessi la carità,
non sarei nulla.
Se distribuissi tutti i miei beni per nutrire i poveri,
se dessi il mio corpo per essere arso,
e non avessi la carità,
non mi gioverebbe a nulla.
La carità è paziente,
è benigna la carità;
la carità non invidia, non si vanta,
non si gonfia, non manca di rispetto,
non cerca il proprio interesse, non si adira,
non tiene conto del male ricevuto,
ma si compiace della verità;
tutto tollera, tutto crede,
tutto spera, tutto sopporta.
La carità non verrà mai meno.
Le profezie scompariranno;
il dono delle lingue cesserà, la scienza svanirà;
conosciamo infatti imperfettamente,
e imperfettamente profetizziamo;
ma quando verrà la perfezione, sparirà ciò che è imperfetto.
Quando ero bambino, parlavo da bambino,
pensavo da bambino, ragionavo da bambino.
Da quando sono diventato uomo,
ho smesso le cose da bambino.
Adesso vediamo come in uno specchio, in modo oscuro;
ma allora vedremo faccia a faccia.
Ora conosco in parte, ma allora conoscerò perfettamente,
come perfettamente sono conosciuto.
Ora esistono queste tre cose: la fede, la speranza e la carità;
ma la più grande di esse è la carità.
S. Paolo – Prima lettera ai Corinzi 13,1
コリント人への第一の手紙第13章
たとえ私が人間や天使の様々な言葉を話しても
愛がないなら、音を立てるひとかけらの青銅、
鳴り響くシンバルです。
たとえ予言する術を賜っても、
すべての神秘と全き知識を得、
山をも動かす信仰があったとしても、
愛がないなら、
何も持たないのと同じことです。
私の持ち物と身体をすっかり、
貧しい者の糧のために施しても、
愛がないなら、
何の役にも立ちません。
愛は辛抱強く、
愛は優しい。
愛は妬まず、自惚れず、思い上がらず、
敬意を欠かず、
利を求めず、苛立たず、
傷つけられても意に介さずに、
真実とのみ共に喜びます。
全てに耐え、全てを信じ、
希望し、忍耐します。
愛は絶えることがない。
予言は消え、言葉の賜物、知識は
なくなります。
私たちの予言も知識も一部分であり、
完全なるものが到来すると
一部分はなくなります。
子供だった頃には、子供として察し、考え、
話しました。
大人になった今は、
子供としては考えない。
今、私たちは仄暗い鏡を見ています。
しかし顔と顔をはっきりと見る時が来ます。
今は一部分しか知らない。けれど、
私が完全に観取されているように、
私も完全に認識するようになるのです。
今、3つのものが用意されています。
信仰、希望、愛。
このうち最も大きなものは愛です。
Inno alla carità
愛の讃歌、使徒パウロがコリント人に充てた手紙です。
聖書はじっくり読むと面白い。
この13章は聖書のうちで最も美しい章の1つではないですか、ね。
美しいし、容易く行き着ける境地ではないです。
La Carità 愛、慈悲、ですが 聖書によって L'Amoreと書いてあります。
ニルヴァーナ(彼岸)の境地に達しないと
行き着かない愛でしょう。
「狭き門」のアリスはこれを求めていました。
「恩愛はなはだ断ちがたく」とありますように、
仏教では愛は執着心、利己に通じるもの。
しかし人間の属性です。
生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
ひさしく沈めるわれらをば弥陀弘誓の船のみぞ
のせてかならずわたしける
一切菩薩ののたまわく
われら因地(いんじ)にありしとき
無量劫(むりょうこう)をへめぐりて
万善修行を修せしかど
恩愛はなはだ断ちがたく、生死はなはだ尽きがたし
念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし
安養浄土(あんにょうじょうど)の荘厳(しょうごん)は
唯仏与仏の知見なり
究竟(くきょう)せること虚空にして
広大にして辺際(へんざい)なし
本願力(ほんがんりき)にあいぬれば
むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし
如来浄華(にょらいじょうけ)の聖衆(しょうじゅう)は
正覚(しょうがく)のはなより化生(けしょう)して
衆生の願楽(がんぎょう)ことごとく
すみやかに とく満足す
親鸞聖人 高僧和讃
Se anche parlassi le lingue degli uomini e degli angeli,
ma non avessi la carità,
sarei un bronzo risonante o un cembalo squillante.
Se avessi il dono della profezia
e conoscessi tutti i misteri e tutta la scienza
e avessi tutta la fede in modo da spostare le montagne,
ma non avessi la carità,
non sarei nulla.
Se distribuissi tutti i miei beni per nutrire i poveri,
se dessi il mio corpo per essere arso,
e non avessi la carità,
non mi gioverebbe a nulla.
La carità è paziente,
è benigna la carità;
la carità non invidia, non si vanta,
non si gonfia, non manca di rispetto,
non cerca il proprio interesse, non si adira,
non tiene conto del male ricevuto,
ma si compiace della verità;
tutto tollera, tutto crede,
tutto spera, tutto sopporta.
La carità non verrà mai meno.
Le profezie scompariranno;
il dono delle lingue cesserà, la scienza svanirà;
conosciamo infatti imperfettamente,
e imperfettamente profetizziamo;
ma quando verrà la perfezione, sparirà ciò che è imperfetto.
Quando ero bambino, parlavo da bambino,
pensavo da bambino, ragionavo da bambino.
Da quando sono diventato uomo,
ho smesso le cose da bambino.
Adesso vediamo come in uno specchio, in modo oscuro;
ma allora vedremo faccia a faccia.
Ora conosco in parte, ma allora conoscerò perfettamente,
come perfettamente sono conosciuto.
Ora esistono queste tre cose: la fede, la speranza e la carità;
ma la più grande di esse è la carità.
S. Paolo – Prima lettera ai Corinzi 13,1
コリント人への第一の手紙第13章
たとえ私が人間や天使の様々な言葉を話しても
愛がないなら、音を立てるひとかけらの青銅、
鳴り響くシンバルです。
たとえ予言する術を賜っても、
すべての神秘と全き知識を得、
山をも動かす信仰があったとしても、
愛がないなら、
何も持たないのと同じことです。
私の持ち物と身体をすっかり、
貧しい者の糧のために施しても、
愛がないなら、
何の役にも立ちません。
愛は辛抱強く、
愛は優しい。
愛は妬まず、自惚れず、思い上がらず、
敬意を欠かず、
利を求めず、苛立たず、
傷つけられても意に介さずに、
真実とのみ共に喜びます。
全てに耐え、全てを信じ、
希望し、忍耐します。
愛は絶えることがない。
予言は消え、言葉の賜物、知識は
なくなります。
私たちの予言も知識も一部分であり、
完全なるものが到来すると
一部分はなくなります。
子供だった頃には、子供として察し、考え、
話しました。
大人になった今は、
子供としては考えない。
今、私たちは仄暗い鏡を見ています。
しかし顔と顔をはっきりと見る時が来ます。
今は一部分しか知らない。けれど、
私が完全に観取されているように、
私も完全に認識するようになるのです。
今、3つのものが用意されています。
信仰、希望、愛。
このうち最も大きなものは愛です。
Inno alla carità
愛の讃歌、使徒パウロがコリント人に充てた手紙です。
聖書はじっくり読むと面白い。
この13章は聖書のうちで最も美しい章の1つではないですか、ね。
美しいし、容易く行き着ける境地ではないです。
La Carità 愛、慈悲、ですが 聖書によって L'Amoreと書いてあります。
ニルヴァーナ(彼岸)の境地に達しないと
行き着かない愛でしょう。
「狭き門」のアリスはこれを求めていました。
「恩愛はなはだ断ちがたく」とありますように、
仏教では愛は執着心、利己に通じるもの。
しかし人間の属性です。
生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
ひさしく沈めるわれらをば弥陀弘誓の船のみぞ
のせてかならずわたしける
一切菩薩ののたまわく
われら因地(いんじ)にありしとき
無量劫(むりょうこう)をへめぐりて
万善修行を修せしかど
恩愛はなはだ断ちがたく、生死はなはだ尽きがたし
念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし
安養浄土(あんにょうじょうど)の荘厳(しょうごん)は
唯仏与仏の知見なり
究竟(くきょう)せること虚空にして
広大にして辺際(へんざい)なし
本願力(ほんがんりき)にあいぬれば
むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし
如来浄華(にょらいじょうけ)の聖衆(しょうじゅう)は
正覚(しょうがく)のはなより化生(けしょう)して
衆生の願楽(がんぎょう)ことごとく
すみやかに とく満足す
親鸞聖人 高僧和讃