2021.05.29
ボブ・ディランと桂米助さんは何の繋がりもないのですが、
(お互いに名前は知っていたりして)
私の、近所の若い獣医さんご夫婦が、
飼っているワンちゃんに“ディラン”と名付けて、
朝夕、散歩に連れだっています。
のんびりした温和しやかなワンちゃんで、
あゝ、犬っていうのは飼い主によく似るものだなぁ、と、
感心して眺めています。
恐らく、夫婦ともボブ・ディランのファンなのでしょう。
風に吹かれて ボブ・ディラン
ボブ・ディランの昔の歌をリンクしてみました。
彼のレパートリーは広く、フォーク、カントリー、ブルース、ゴスペル、
ロックからジャズまで、シンガーソングライターでもあります。
2016年にはノーベル文学賞を受賞。
「偉大な伝統のあるアメリカの歌を受け継いだ、
新しい詩的表現の創作」という理由からです。
ノーベル委員会と電話で応答し、授賞式に行ったのは、
代理人です。2週間後に彼本人がスウェーデンを訪れました。
日本人であったとしたら、飛びつくように貰いに行ったでしょうね。
(飛びつくようにもらい受けることは、
決して悪いことではないです)
新作落語】5月15日浅草演芸ホールの寄席/「落語禁止法」桂米助
こちらは桂米助さんの新作落語です。
それから、“東京五輪”。世界からの風当たり。
世界的知性が続々苦言「なぜ日本人は、東京五輪を中止できないのか」
ストレーサーの、モッタローネ山で
ロープウェイのロープが切れて、14人が即死。
1人の少女だけが助かりました。
悲しい事故でした。
ローマではテニスのトーナメント戦で、錦織選手、
大坂なおみ選手、西岡良仁選手が活躍。
今は、パリへ旅立ったはずですが。
勝っても負けてもいいのよ。
誰かの黒字は誰かの赤字、
誰かが勝ちを取れば、誰かが負けを取る。
しかし、スポーツは人間が作り上げた、
生彩ある美しさですね。
(お互いに名前は知っていたりして)
私の、近所の若い獣医さんご夫婦が、
飼っているワンちゃんに“ディラン”と名付けて、
朝夕、散歩に連れだっています。
のんびりした温和しやかなワンちゃんで、
あゝ、犬っていうのは飼い主によく似るものだなぁ、と、
感心して眺めています。
恐らく、夫婦ともボブ・ディランのファンなのでしょう。
風に吹かれて ボブ・ディラン
ボブ・ディランの昔の歌をリンクしてみました。
彼のレパートリーは広く、フォーク、カントリー、ブルース、ゴスペル、
ロックからジャズまで、シンガーソングライターでもあります。
2016年にはノーベル文学賞を受賞。
「偉大な伝統のあるアメリカの歌を受け継いだ、
新しい詩的表現の創作」という理由からです。
ノーベル委員会と電話で応答し、授賞式に行ったのは、
代理人です。2週間後に彼本人がスウェーデンを訪れました。
日本人であったとしたら、飛びつくように貰いに行ったでしょうね。
(飛びつくようにもらい受けることは、
決して悪いことではないです)
新作落語】5月15日浅草演芸ホールの寄席/「落語禁止法」桂米助
こちらは桂米助さんの新作落語です。
それから、“東京五輪”。世界からの風当たり。
世界的知性が続々苦言「なぜ日本人は、東京五輪を中止できないのか」
ストレーサーの、モッタローネ山で
ロープウェイのロープが切れて、14人が即死。
1人の少女だけが助かりました。
悲しい事故でした。
ローマではテニスのトーナメント戦で、錦織選手、
大坂なおみ選手、西岡良仁選手が活躍。
今は、パリへ旅立ったはずですが。
勝っても負けてもいいのよ。
誰かの黒字は誰かの赤字、
誰かが勝ちを取れば、誰かが負けを取る。
しかし、スポーツは人間が作り上げた、
生彩ある美しさですね。
2021.05.25
《Ⅰ 語り手 テノール
静かに、お喋りせずに、これから何が始まるのか
聞いてください。
シュレンドリアン氏が娘のリースヒェンと一緒に
やって来ましたよ。シュレンドリアン氏は、
蜜を舐める熊のようにうなっています。
娘が父に何をしたか、聞いてください。
✕まであるけれど、大ざっぱな訳し方で、
番号に合わせて訳しません。
父は(バス・バリトン)は娘と(ソプラノ)と
言い合いしながら登場します。
「子供なんてしょうもない。何を言っても
どこかに行ってしまって効果なし。
とにかくコーヒーをやめなさい」
「お父さん、一日三度のコーヒーを飲むだけよ。
それができないならヤギの焼肉になってしまう」
娘のアリア 「コーヒーの何て美味しいこと
千の口づけよりもマスカットワインよりも」
「ヤンチャ娘よ、お前がコーヒーを止めないなら、
結婚パーティも散歩も禁じる。
クジラの骨で膨らませたドレスを着るのも、
通行人を眺めるのも。
帽子飾りのリボンを着けるのも」
「いいわよ、私の楽しみを残しておいてくれるなら」
「父の言うことを聞きなさい」
「コーヒーだけはダメよ」
「それなら夫を持たないことも受け入れるね」
「夫を!じゃあ、コーヒーを止めるわ」
「お父さん、私に似合う人を探してね」
シュレンドリアン氏は娘の夫を探しに行きました。
しかしリースヒェンは、
「こんな求婚者は私の家に入れない。
結婚契約書に次のことを書かなければ。
『私が好きな時にコーヒーを入れることを
許す』という約束しなければ」と、
密かに言いふらします。
ラスト 三重唱
ネコはネズミを見逃さない。
娘たちもコーヒーを見逃さない。
お母さんもおばあちゃんも。
じゃ、誰が娘をとがめるのでしょうか!
以上、こんな風です。
難しくないですね。
お邪魔しました。
久しぶりに肩の力を抜くことができるテキストでしたあ。》
以上が、Flügelさんにしていただいた翻訳です。
もう1度、動画をリンクしますね。
Bach - Kaffeekantate: Schweigt stille, plaudert nicht BWV 211 - Sato | Netherlands Bach Society
バッハのコーヒー・カンタータです。
コーヒー繋がりで、コーヒー・ルンバ
コーヒールンバ Coffee Rumba
ルンバ繋がりで、何げに似ている
フランシス・プーランクのピアノ協奏曲嬰ハ短調
Francis Poulenc : Concerto in C-sharp minor for piano and orchestra FP 146 (1949)
第一楽章、出だしがコーヒー・ルンバと似ています。
プーランク; (1899年~ 1963年)
フランス6人組と呼ばれる作曲家の(ミヨー、オネーゲルなど)うちの
1人です。
お時間に任せてお聴きください。
静かに、お喋りせずに、これから何が始まるのか
聞いてください。
シュレンドリアン氏が娘のリースヒェンと一緒に
やって来ましたよ。シュレンドリアン氏は、
蜜を舐める熊のようにうなっています。
娘が父に何をしたか、聞いてください。
✕まであるけれど、大ざっぱな訳し方で、
番号に合わせて訳しません。
父は(バス・バリトン)は娘と(ソプラノ)と
言い合いしながら登場します。
「子供なんてしょうもない。何を言っても
どこかに行ってしまって効果なし。
とにかくコーヒーをやめなさい」
「お父さん、一日三度のコーヒーを飲むだけよ。
それができないならヤギの焼肉になってしまう」
娘のアリア 「コーヒーの何て美味しいこと
千の口づけよりもマスカットワインよりも」
「ヤンチャ娘よ、お前がコーヒーを止めないなら、
結婚パーティも散歩も禁じる。
クジラの骨で膨らませたドレスを着るのも、
通行人を眺めるのも。
帽子飾りのリボンを着けるのも」
「いいわよ、私の楽しみを残しておいてくれるなら」
「父の言うことを聞きなさい」
「コーヒーだけはダメよ」
「それなら夫を持たないことも受け入れるね」
「夫を!じゃあ、コーヒーを止めるわ」
「お父さん、私に似合う人を探してね」
シュレンドリアン氏は娘の夫を探しに行きました。
しかしリースヒェンは、
「こんな求婚者は私の家に入れない。
結婚契約書に次のことを書かなければ。
『私が好きな時にコーヒーを入れることを
許す』という約束しなければ」と、
密かに言いふらします。
ラスト 三重唱
ネコはネズミを見逃さない。
娘たちもコーヒーを見逃さない。
お母さんもおばあちゃんも。
じゃ、誰が娘をとがめるのでしょうか!
以上、こんな風です。
難しくないですね。
お邪魔しました。
久しぶりに肩の力を抜くことができるテキストでしたあ。》
以上が、Flügelさんにしていただいた翻訳です。
もう1度、動画をリンクしますね。
Bach - Kaffeekantate: Schweigt stille, plaudert nicht BWV 211 - Sato | Netherlands Bach Society
バッハのコーヒー・カンタータです。
コーヒー繋がりで、コーヒー・ルンバ
コーヒールンバ Coffee Rumba
ルンバ繋がりで、何げに似ている
フランシス・プーランクのピアノ協奏曲嬰ハ短調
Francis Poulenc : Concerto in C-sharp minor for piano and orchestra FP 146 (1949)
第一楽章、出だしがコーヒー・ルンバと似ています。
プーランク; (1899年~ 1963年)
フランス6人組と呼ばれる作曲家の(ミヨー、オネーゲルなど)うちの
1人です。
お時間に任せてお聴きください。
2021.05.21
昨年の秋に、コーヒーの香りが電波に乗って流れて来るような、
美味しそうな、沢山のコーヒー・コメントをいただきました。
それで、今日はコーヒーが主役の、
バッハの「コーヒー・カンタータ」を行ってみますね。
先ずはコーヒーの歴史から;
コーヒーの語源はアラビア語でqahā (in arabo: قها, "mancanza di fame")が、
Qahwahとなり、トルコ・オットマーナ語kahve カーベとなりました。
10世紀の頃に自然発生していたコーヒーをエチオピア人が発見!
コーヒーの伝説;エチオピアのKaldiというヤギ飼いが、ある日、
コーヒーの木を見つけ、
ヤギたちがコーヒーの実と葉を齧り食べ始めました。
夜になりヤギたちは眠る時刻になっても、眠るどころか、
生き生きとエネルギッシュに辺りをさまよい始めました。
山羊飼いは、これはコーヒーの木のためだと、
この実を焼いて砕き、蒸して飲み始めたのがコーヒーの始まりだ、
という伝説だそうです。
エチオピア人、そしてペルシア人、イエメン人も飲み始めました。
より良い品質のコーヒーはイエメンのMokha と推測されます。
15世紀にはダマスカス、カイロ、イスタンブールにまで普及しました。
トルコを旅したフランシス・ベーコンがコーヒー屋さん(カフェ)に座って、
コーヒーを飲むトルコ人たちを記しています。
ヨーロッパにも広まったコーヒーの木が植えられたのは、
ドイツの植物学者によって最初でした。
コーヒーは、しかし亜熱帯地域でなければ良く育たなかったでしょうね。
イタリア、ヨーロッパに広く普及させたのは、
中近東地域とビジネス関係を結んでいたヴェネツィア共和国です。
1645年に、コーヒー・ショップ、カフェが、
初めてヴェネツィアに生まれました。
1651年、イギリスで輸入が始まったコーヒー、
コーヒーハウスは59軒から始まり、
1715年には何とロンドンだけで3000軒以上に増えました。
当時、ロンドン、パリではコーヒー一杯が40スクーディだったそうです。
最初のコーヒー・プランテーション(大量栽培)で
有名なブラジルは複雑な国で、先ず、
ポルトガルの植民地でしたが、
スペインがポルトガルを併合してブラジルはスペイン領となりました。
オランダもブラジルの1地域を領有しましたが、
ポルトガルが独立を回復し、全地域を奮回しました。
ですから、彼らの言葉は今日でもポルトガル語ですね。
18世紀前半には、大変なスピードで、
栽培が中央アメリカ、南アメリカ大陸に広まって行ったのです。
コーヒーの木で有名なのは、
アラビカ、ロブスタ、リベリカ、エクセルサなどですね。
ここまで、知識のお披露目、半可通、
知ったかブログになってしまいました。
田辺聖子がエッセイの中で、
「知識があるというのは決して偉いこと、秀でたことではない。
知識は本によって、誰かによって得たもので、
生まれた時から知っていたわけではない。
知識、知に対して謙虚であるべきだ」
これはその通りと、共鳴いたします。
で、まだ″知ったか″が続きます。
広く、奥深い知識は個人的にお調べください。
14世紀フィレンツェから始まり西欧世界に広まった、
ギリシャ、ローマの古典文化復興運動は、ルネッサンスと言われ、
神の視点から人間の視点へ。
16世紀、バロック時代まで続きます。
簡素だったルネッサンス様式とは反対に絢爛豪華で、
金や色大理石をふんだんに使い、曲線美が特徴のバロック様式。
やはりイタリア・ローマ誕生ということで、
有名どころはボロミーニという建築家、それからベルニーニ。
ベルニーニのローマのモンテチトーリオ宮殿が代表建築ですね。
絵画のカラヴァッジョが当時の代表的画家です。
音楽に於いてはバロック時代と認定されるのは、
ヴェネツィアのヴィヴァルディで、
彼はヴァイオリンの名手でしたが、
チェンバロはバロック時代の主要な楽器です。
ヴィヴァルディも勿論、バロック代表選手なのですが、
バロックといいますと何と言ってもJ.S.バッハでしょう。
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)
彼は、カッチーニやカリッシミ、フレスコバルディなどの音楽を集結、
単に纏め上げただけとも言われたりしますが、
精神の深さでは他の追随を許さない、と明言します。
(他のバロック作曲家も素晴らしいとは感嘆しています)
バッハは「俺はバロック時代の音楽を書いている」
とは思わなかったでしょう。
バロック時代という言葉は後世の人々が位置づけて
名付けた言葉だから。
バロック音楽は1600年ごろから1750年まで、
J.S.バッハの昇天まで続きます。
バロック音楽の最高峰バッハが、
″音楽の父″と謂われるのは他の理由からですが、
ここでは、世俗カンタータの、
「Kaffeekantate」 Caffè Cantata コーヒー・カンタータを。
バッハもコーヒーが大好きでした!
取り合えず、コーヒーカンタータをリンクいたします。
カンタータは本来、演技なしですが、
このコーヒーカンタータは現代風アレンジのもと、演技しています。
Bach - Kaffeekantate: Schweigt stille, plaudert nicht BWV 211 - Sato | Netherlands Bach Society
訳したり説明(お喋り)したりは、後ほどになりますのですが、
悪しからず。
カンタータのことなど;
カンタータを遡るとマドリガーレに行き着きます。
アレッサンドロ・グランディという音楽家が、1620年に、
独唱と通奏低音の曲を作り、カンターデとし、
中世マドリガーレ、ルネッサンスマドリガーレは17世紀に入って
カンタータに取って代わられました。
Cantare 歌う、ですね。Cantare→ Cantata
後に、ボロンチーニという人が、
室内カンタータなんてのを作りまして、
アリア、レチタティーヴォ、重唱、合唱に
様々な楽器による伴奏付けがされて、
賑やかになりました。
ドイツでは教会カンタータが発展しました。
通奏低音(ゲネラルバス)は、バロック音楽の重要な役割を果たします。
高音部を支える「低音の魅力」を、
この頃から既に作曲家は感じ取っていたのでしょうね。
通奏低音は主にヴィオラ・ダ・ガンバ(足で抱えてチェロのように弾く)で
演奏され、その後、チェロで奏されます。
この動画はチェロでの通奏低音です。
バロック時代の日本をちょっと覗いて見ましょうか。
バロック時代が始まる1600年(頃)
1603年、日本では戦国時代で、関ケ原の戦いが終わり、
徳川征夷大将軍家康が江戸に幕府を開いた頃です。
バッハ生まれたのは、1685年、
日本では、
1680年から始まる綱吉将軍の時代ですね。
動物を愛した綱吉将軍は、
1687年に生類憐みの令を発令しました。
その後、吉宗、家重将軍と続きます。
コーヒーカンタータが作られた時代は1732~1733年
1732年は享保の大飢饉の、悲しい年ですが、
1733年には杉田玄白が生まれました。
ザッと見渡しますと、
バッハの生きた時代には、日本では元禄文化が隆盛で、
井原西鶴、1689年に松尾芭蕉、「奥の細道」の完成、
近松門左衛門「曾根崎心中」を著わすなど、
芸術家が活躍した時代でもありました。
長くなりましたが、「コーヒーカンタータ」の原文です。
Ⅰ Rezitativ:Tenor Ⅰ レチタティーヴォ:テノール
continuo 通奏低音
Erzähler:
Schweigt stille, plaudert nicht
Und höret, was itzund geschicht:
Da kommt Herr Schlendrian
Mit seiner Tochter Liesgen her,
Er brummt ja wie ein Zeidelbar;
Hört selber, was sie ihm getan!
Ⅱ Aria:Baß Ⅱ アリア:バス
violino Ⅰ/Ⅱ、viola、continuo ヴァイオリンⅠ/Ⅱ、ヴィオラ、通奏低音
Schlendrian:
Hat man nicht mit seinen Kindern
Hunderttausend Hudelei!
Was ich immer alle Tage
Meiner Tochter Liesgen sage,
Gehet ohne Frucht vorbei.
Ⅲ Recitativ:Baß、Sopran Ⅲ レチタティーヴォ:バス、ソプラノ
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Du böses Kind, du loses Mädchen,
Ach! wenn erlang ich meinen Zweck:
Tu mir den Coffee weg!
Liesgen:
Herr Vater, seid doch nicht so scharf!
Wenn ich des Tages nicht dreimal
Mein Schälchen Coffee trinken darf,
So werd ich ja zu meiner Qual
Wie ein verdorrtes Ziegenbratchen.
Ⅳ Aria:Sopran Ⅳ アリア:ソプラノ
flauto traverso、continuo フルート・トラヴェルソ、通奏低音
Liesgen:
Ei! wie schmeckt der Coffee süßse,
Lieblicher als tausend Küusse,
Milder als Muskatenwein.
Coffee, Coffee muss ich haben,
Und wenn jemand mich will laben,
Ach, so schenkt mir Coffee ein!
Ⅴ Recitativ:Baß、Sopran Ⅴ レチタティーヴォ:バス、ソプラノ
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Wenn du mir nicht den Coffee lässt,
So sollst du auf kein Hochzeitfest,
Auch nicht spazierengehn.
Liesgen:
Ach ja!
Nur lasset mir den Coffee da!
Schlendrian:
Da hab ich nun den kleinen Affen!
Ich will dir keinen Fischbeinrock
nach itzger Weite schaffen.
Liesgen:
Ich kann mich leicht darzu verstehn.
Schlendrian:
Du sollst nicht an das Fenster treten
Und keinen sehn vorubergehn!
Liesgen:
Auch dieses; doch seid nur gebeten
Und lasset mir den Coffee stehn!
Schlendrian:
Du sollst auch nicht von meiner Hand
Ein silbern oder goldnes Band
Auf deine Haube kriegen!
Liesgen:
Ja, ja! nur lasst mir mein Vergnügen!
Schlendrian:
Du loses Liesgen du,
So gibst du mir denn alles zu?
Ⅵ Aria:Baß Ⅵ アリア:バス
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Mädchen, die von harten Sinnen,
Sind nicht leichte zu gewinnen.
Doch trifft man den rechten Ort,
O! so kömmt man glücklich fort.
Ⅶ Recitativ:Baß、Sopran Ⅶ レチタティーヴォ:バス、ソプラノ
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Nun folge, was dein Vater spricht!
Liesgen:
In allem, nur den Coffee nicht.
Schlendrian:
Wohlan! so musst du dich bequemen,
Auch niemals einen Mann zu nehmen.
Liesgen:
Ach ja! Herr Vater, einen Mann!
Schlendrian:
Ich schwöre, dass es nicht geschicht.
Liesgen:
Bis ich den Coffee lassen kann?
Nun! Coffee, bleib nur immer liegen!
Herr Vater, hört, ich trinke keinen nicht.
Schlendrian:
So sollst du endlich einen kriegen!
Ⅷ Aria:Sopran Ⅷ アリア:ソプラノ
violinoⅠ/Ⅱ、viola、cembalo、continuo ヴァイオリンⅠ/Ⅱ、ヴィオラ、チェンバロ、通奏低音
Heute noch,
Lieber Vater, tut es doch!
Ach, ein Mann!
Wahrlich, dieser steht mir an!
Wenn es sich doch balde fügte,
Dass ich endlich vor Coffee,
Eh ich noch zu Bette geh,
Einen wackern Liebsten kriegte!
Ⅸ Rezitativ:Tenor Ⅸ レチタティーヴォ:テノール
continuo 通奏低音
Erzähler:
Nun geht und sucht der alte Schlendrian,
Wie er vor seine Tochter Liesgen
Bald einen Mann verschaffen kann;
Doch, Liesgen streuet heimlich aus:
Kein Freier komm mir in das Haus,
Er hab es mir denn selbst versprochen
Und rück es auch der Ehestiftung ein,
Dass mir erlaubet möge sein,
Den Coffee, wenn ich will, zu kochen.
Ⅹ Chor(Terzett):Sopran、Sopran、Baß Ⅹ 合唱(三重唱):ソプラノ、テノール、バス
flauto traverso、violinoⅠ/Ⅱ、viola、continuo フルート・トラヴェルソ、ヴァイオリンⅠ/Ⅱ、ヴィオラ、通奏低音
Die Katze lässt das Mausen nicht
Die Jungfern bleiben Coffeeschwestern.
Die Mutter liebt den Coffeebrauch,
Die Großmama trank solchen auch,
Wer will nun auf die Töchter lästern!
難しくはないので、訳してご覧になってください。
父と娘、語り手の3人だけが登場人物です。
父親は何とかして娘のコーヒー好きを
止めようとしますが。。。
動画で見る限り、娘さんはコーヒー中毒のようですね。
当時のドイツ、ライプツィヒではコーヒー依存症が多く、
社会問題にまでなったのだとか。
私も毎日飲みますが、依存症かしら。
美味しそうな、沢山のコーヒー・コメントをいただきました。
それで、今日はコーヒーが主役の、
バッハの「コーヒー・カンタータ」を行ってみますね。
先ずはコーヒーの歴史から;
コーヒーの語源はアラビア語でqahā (in arabo: قها, "mancanza di fame")が、
Qahwahとなり、トルコ・オットマーナ語kahve カーベとなりました。
10世紀の頃に自然発生していたコーヒーをエチオピア人が発見!
コーヒーの伝説;エチオピアのKaldiというヤギ飼いが、ある日、
コーヒーの木を見つけ、
ヤギたちがコーヒーの実と葉を齧り食べ始めました。
夜になりヤギたちは眠る時刻になっても、眠るどころか、
生き生きとエネルギッシュに辺りをさまよい始めました。
山羊飼いは、これはコーヒーの木のためだと、
この実を焼いて砕き、蒸して飲み始めたのがコーヒーの始まりだ、
という伝説だそうです。
エチオピア人、そしてペルシア人、イエメン人も飲み始めました。
より良い品質のコーヒーはイエメンのMokha と推測されます。
15世紀にはダマスカス、カイロ、イスタンブールにまで普及しました。
トルコを旅したフランシス・ベーコンがコーヒー屋さん(カフェ)に座って、
コーヒーを飲むトルコ人たちを記しています。
ヨーロッパにも広まったコーヒーの木が植えられたのは、
ドイツの植物学者によって最初でした。
コーヒーは、しかし亜熱帯地域でなければ良く育たなかったでしょうね。
イタリア、ヨーロッパに広く普及させたのは、
中近東地域とビジネス関係を結んでいたヴェネツィア共和国です。
1645年に、コーヒー・ショップ、カフェが、
初めてヴェネツィアに生まれました。
1651年、イギリスで輸入が始まったコーヒー、
コーヒーハウスは59軒から始まり、
1715年には何とロンドンだけで3000軒以上に増えました。
当時、ロンドン、パリではコーヒー一杯が40スクーディだったそうです。
最初のコーヒー・プランテーション(大量栽培)で
有名なブラジルは複雑な国で、先ず、
ポルトガルの植民地でしたが、
スペインがポルトガルを併合してブラジルはスペイン領となりました。
オランダもブラジルの1地域を領有しましたが、
ポルトガルが独立を回復し、全地域を奮回しました。
ですから、彼らの言葉は今日でもポルトガル語ですね。
18世紀前半には、大変なスピードで、
栽培が中央アメリカ、南アメリカ大陸に広まって行ったのです。
コーヒーの木で有名なのは、
アラビカ、ロブスタ、リベリカ、エクセルサなどですね。
ここまで、知識のお披露目、半可通、
知ったかブログになってしまいました。
田辺聖子がエッセイの中で、
「知識があるというのは決して偉いこと、秀でたことではない。
知識は本によって、誰かによって得たもので、
生まれた時から知っていたわけではない。
知識、知に対して謙虚であるべきだ」
これはその通りと、共鳴いたします。
で、まだ″知ったか″が続きます。
広く、奥深い知識は個人的にお調べください。
14世紀フィレンツェから始まり西欧世界に広まった、
ギリシャ、ローマの古典文化復興運動は、ルネッサンスと言われ、
神の視点から人間の視点へ。
16世紀、バロック時代まで続きます。
簡素だったルネッサンス様式とは反対に絢爛豪華で、
金や色大理石をふんだんに使い、曲線美が特徴のバロック様式。
やはりイタリア・ローマ誕生ということで、
有名どころはボロミーニという建築家、それからベルニーニ。
ベルニーニのローマのモンテチトーリオ宮殿が代表建築ですね。
絵画のカラヴァッジョが当時の代表的画家です。
音楽に於いてはバロック時代と認定されるのは、
ヴェネツィアのヴィヴァルディで、
彼はヴァイオリンの名手でしたが、
チェンバロはバロック時代の主要な楽器です。
ヴィヴァルディも勿論、バロック代表選手なのですが、
バロックといいますと何と言ってもJ.S.バッハでしょう。
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)
彼は、カッチーニやカリッシミ、フレスコバルディなどの音楽を集結、
単に纏め上げただけとも言われたりしますが、
精神の深さでは他の追随を許さない、と明言します。
(他のバロック作曲家も素晴らしいとは感嘆しています)
バッハは「俺はバロック時代の音楽を書いている」
とは思わなかったでしょう。
バロック時代という言葉は後世の人々が位置づけて
名付けた言葉だから。
バロック音楽は1600年ごろから1750年まで、
J.S.バッハの昇天まで続きます。
バロック音楽の最高峰バッハが、
″音楽の父″と謂われるのは他の理由からですが、
ここでは、世俗カンタータの、
「Kaffeekantate」 Caffè Cantata コーヒー・カンタータを。
バッハもコーヒーが大好きでした!
取り合えず、コーヒーカンタータをリンクいたします。
カンタータは本来、演技なしですが、
このコーヒーカンタータは現代風アレンジのもと、演技しています。
Bach - Kaffeekantate: Schweigt stille, plaudert nicht BWV 211 - Sato | Netherlands Bach Society
訳したり説明(お喋り)したりは、後ほどになりますのですが、
悪しからず。
カンタータのことなど;
カンタータを遡るとマドリガーレに行き着きます。
アレッサンドロ・グランディという音楽家が、1620年に、
独唱と通奏低音の曲を作り、カンターデとし、
中世マドリガーレ、ルネッサンスマドリガーレは17世紀に入って
カンタータに取って代わられました。
Cantare 歌う、ですね。Cantare→ Cantata
後に、ボロンチーニという人が、
室内カンタータなんてのを作りまして、
アリア、レチタティーヴォ、重唱、合唱に
様々な楽器による伴奏付けがされて、
賑やかになりました。
ドイツでは教会カンタータが発展しました。
通奏低音(ゲネラルバス)は、バロック音楽の重要な役割を果たします。
高音部を支える「低音の魅力」を、
この頃から既に作曲家は感じ取っていたのでしょうね。
通奏低音は主にヴィオラ・ダ・ガンバ(足で抱えてチェロのように弾く)で
演奏され、その後、チェロで奏されます。
この動画はチェロでの通奏低音です。
バロック時代の日本をちょっと覗いて見ましょうか。
バロック時代が始まる1600年(頃)
1603年、日本では戦国時代で、関ケ原の戦いが終わり、
徳川征夷大将軍家康が江戸に幕府を開いた頃です。
バッハ生まれたのは、1685年、
日本では、
1680年から始まる綱吉将軍の時代ですね。
動物を愛した綱吉将軍は、
1687年に生類憐みの令を発令しました。
その後、吉宗、家重将軍と続きます。
コーヒーカンタータが作られた時代は1732~1733年
1732年は享保の大飢饉の、悲しい年ですが、
1733年には杉田玄白が生まれました。
ザッと見渡しますと、
バッハの生きた時代には、日本では元禄文化が隆盛で、
井原西鶴、1689年に松尾芭蕉、「奥の細道」の完成、
近松門左衛門「曾根崎心中」を著わすなど、
芸術家が活躍した時代でもありました。
長くなりましたが、「コーヒーカンタータ」の原文です。
Ⅰ Rezitativ:Tenor Ⅰ レチタティーヴォ:テノール
continuo 通奏低音
Erzähler:
Schweigt stille, plaudert nicht
Und höret, was itzund geschicht:
Da kommt Herr Schlendrian
Mit seiner Tochter Liesgen her,
Er brummt ja wie ein Zeidelbar;
Hört selber, was sie ihm getan!
Ⅱ Aria:Baß Ⅱ アリア:バス
violino Ⅰ/Ⅱ、viola、continuo ヴァイオリンⅠ/Ⅱ、ヴィオラ、通奏低音
Schlendrian:
Hat man nicht mit seinen Kindern
Hunderttausend Hudelei!
Was ich immer alle Tage
Meiner Tochter Liesgen sage,
Gehet ohne Frucht vorbei.
Ⅲ Recitativ:Baß、Sopran Ⅲ レチタティーヴォ:バス、ソプラノ
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Du böses Kind, du loses Mädchen,
Ach! wenn erlang ich meinen Zweck:
Tu mir den Coffee weg!
Liesgen:
Herr Vater, seid doch nicht so scharf!
Wenn ich des Tages nicht dreimal
Mein Schälchen Coffee trinken darf,
So werd ich ja zu meiner Qual
Wie ein verdorrtes Ziegenbratchen.
Ⅳ Aria:Sopran Ⅳ アリア:ソプラノ
flauto traverso、continuo フルート・トラヴェルソ、通奏低音
Liesgen:
Ei! wie schmeckt der Coffee süßse,
Lieblicher als tausend Küusse,
Milder als Muskatenwein.
Coffee, Coffee muss ich haben,
Und wenn jemand mich will laben,
Ach, so schenkt mir Coffee ein!
Ⅴ Recitativ:Baß、Sopran Ⅴ レチタティーヴォ:バス、ソプラノ
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Wenn du mir nicht den Coffee lässt,
So sollst du auf kein Hochzeitfest,
Auch nicht spazierengehn.
Liesgen:
Ach ja!
Nur lasset mir den Coffee da!
Schlendrian:
Da hab ich nun den kleinen Affen!
Ich will dir keinen Fischbeinrock
nach itzger Weite schaffen.
Liesgen:
Ich kann mich leicht darzu verstehn.
Schlendrian:
Du sollst nicht an das Fenster treten
Und keinen sehn vorubergehn!
Liesgen:
Auch dieses; doch seid nur gebeten
Und lasset mir den Coffee stehn!
Schlendrian:
Du sollst auch nicht von meiner Hand
Ein silbern oder goldnes Band
Auf deine Haube kriegen!
Liesgen:
Ja, ja! nur lasst mir mein Vergnügen!
Schlendrian:
Du loses Liesgen du,
So gibst du mir denn alles zu?
Ⅵ Aria:Baß Ⅵ アリア:バス
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Mädchen, die von harten Sinnen,
Sind nicht leichte zu gewinnen.
Doch trifft man den rechten Ort,
O! so kömmt man glücklich fort.
Ⅶ Recitativ:Baß、Sopran Ⅶ レチタティーヴォ:バス、ソプラノ
continuo 通奏低音
Schlendrian:
Nun folge, was dein Vater spricht!
Liesgen:
In allem, nur den Coffee nicht.
Schlendrian:
Wohlan! so musst du dich bequemen,
Auch niemals einen Mann zu nehmen.
Liesgen:
Ach ja! Herr Vater, einen Mann!
Schlendrian:
Ich schwöre, dass es nicht geschicht.
Liesgen:
Bis ich den Coffee lassen kann?
Nun! Coffee, bleib nur immer liegen!
Herr Vater, hört, ich trinke keinen nicht.
Schlendrian:
So sollst du endlich einen kriegen!
Ⅷ Aria:Sopran Ⅷ アリア:ソプラノ
violinoⅠ/Ⅱ、viola、cembalo、continuo ヴァイオリンⅠ/Ⅱ、ヴィオラ、チェンバロ、通奏低音
Heute noch,
Lieber Vater, tut es doch!
Ach, ein Mann!
Wahrlich, dieser steht mir an!
Wenn es sich doch balde fügte,
Dass ich endlich vor Coffee,
Eh ich noch zu Bette geh,
Einen wackern Liebsten kriegte!
Ⅸ Rezitativ:Tenor Ⅸ レチタティーヴォ:テノール
continuo 通奏低音
Erzähler:
Nun geht und sucht der alte Schlendrian,
Wie er vor seine Tochter Liesgen
Bald einen Mann verschaffen kann;
Doch, Liesgen streuet heimlich aus:
Kein Freier komm mir in das Haus,
Er hab es mir denn selbst versprochen
Und rück es auch der Ehestiftung ein,
Dass mir erlaubet möge sein,
Den Coffee, wenn ich will, zu kochen.
Ⅹ Chor(Terzett):Sopran、Sopran、Baß Ⅹ 合唱(三重唱):ソプラノ、テノール、バス
flauto traverso、violinoⅠ/Ⅱ、viola、continuo フルート・トラヴェルソ、ヴァイオリンⅠ/Ⅱ、ヴィオラ、通奏低音
Die Katze lässt das Mausen nicht
Die Jungfern bleiben Coffeeschwestern.
Die Mutter liebt den Coffeebrauch,
Die Großmama trank solchen auch,
Wer will nun auf die Töchter lästern!
難しくはないので、訳してご覧になってください。
父と娘、語り手の3人だけが登場人物です。
父親は何とかして娘のコーヒー好きを
止めようとしますが。。。
動画で見る限り、娘さんはコーヒー中毒のようですね。
当時のドイツ、ライプツィヒではコーヒー依存症が多く、
社会問題にまでなったのだとか。
私も毎日飲みますが、依存症かしら。
2021.05.16
大岡どのからお伝えしていただいた動画を
Upします。
是非ご覧ください。
まん延防止措置「本当の目的」山本太郎&田村智子
山本太郎は見通していた「なぜ東京五輪に反対したのか」
この2本です。
動画をご覧になりながら好い日曜日をお過ごしください。
Upします。
是非ご覧ください。
まん延防止措置「本当の目的」山本太郎&田村智子
山本太郎は見通していた「なぜ東京五輪に反対したのか」
この2本です。
動画をご覧になりながら好い日曜日をお過ごしください。
2021.05.10
ナポリの南に位置するサレルノの近郊、
カーヴァ・デ・ティレーニの、
1人の女性の慈悲と惻隠のお話です。
女性の名はルチーア・ピサーピア、、
彼女はマンマ・ルチーアと呼ばれます。
第二次世界大戦が、今や終わろうとする頃の1943年、
容赦なく降りかかる米軍のB24の爆撃によって、ドイツの
ヘルマンゲーリング部隊は多数の兵士が死に至り、
町は破壊され、
生き残った部隊は死んだ仲間を放置して
退去してしまいました。
無数のドイツの若者たちが、列をなして死に行くのを
目の当たりにしたマンマ・ルチーアは、
「敗戦を超えるのは人間性だ」と解し、
埋葬を決意します。
戦争に散った700人の遺体を身元確認し、
何百もの個人の持ち物を取り戻しました。
フランチェスコ三次修道会のコースを修了していた彼女は、
埋葬されていない遺体を尊びながら、
ヘルメット、長靴、破れた軍服を遺体と共に
固定釘で埋葬の準備を始めました。
彼女は連合司令部に手紙を書きます。
「身元が分からない遺体の埋葬を許可して欲しい」。
司令部は、しかし「埋葬は市の役割だ」、との返事。
ルチーアは諦めることなく、カーヴァの市長に頼み込み、
サレルノ知事に願い出ました。そうして知事から許可が下り、
2人の墓掘り人夫が充てがわれました。
ルチーアが埋葬したのは、ドイツ人ばかりでなく、
アングロアメリカ人、マロッコ人、ポーランド人もいました。
ルチーアはただ1人で遺体の配慮、埋葬をしたのです。
彼女は軍服や国旗を目に止めませんでした。
1951年、イタリアの法律が変わりました。
戦争期間に亡くなった兵士と民間人の遺体の
人口調査と配置のための対策がなされるようになりました。
“Il Mattino” “L’Osservatore” “Il Corriere della sera”
といった大手新聞、ドイツの定期刊行誌によって、
彼女の活動は、すぐに人々に知られるところとなり、
ニュースが世界を駆け巡りました。
ローマ法王、ピオXII世から銀のメダルが贈られ、
また、ドイツ伍長の遺体を発見したところにより、
ドイツ連邦共和国から功労賞グランデクロスが贈られました。
1959年にはイタリア共和国から共和国総帥名誉賞が付与され、
彼女はサレルノ名誉市民となりました。
ジュゼッペ・マロッタが「母たち」というエッセイを収集し、
その中で彼女をこう描写しています。
「勇気ある女性、彼女はハイブリッドだ」。
(ハイブリッドというのは車に関してよく使われる言葉ですが、
この場合、ジェネラリスト、
様々な分野の知識や能力を持った人ということでしょう)
マロッタは、また「人々は、彼女の寡黙で慎ましい、謙虚で無垢な性情と
庶民としての判断に打たれたのでしょう」
「無邪気さ、飾り気のない純粋さ、そして厳格さ、類ない戦術、
出来事の整理の仕方の素晴らしさ」、
「夫の内気な干渉を拒否し、しかし彼女はいつもは柔和で、
そして誇りがありました」。
1982年、マンマ・ルチーアは天に召されました。享年95歳でした。
ニュースを聞いた、時の大統領、サンドロ・ペルティーニは
カーヴァ市長への手紙の中で、
「愛と連体認識の価値感は人間形成の基本だということを
知らしめた、マンマ・ルチーアの逝去の痛みに打たれました」
マンマ・ルチーアで連想しますのは、
「カヴァレリア・ルスティカーナ」に登場する
マンマ・ルチーアです。
トゥリドゥの母親で、村人たちから、
「マンマ・ルチーア」と呼ばれています。
居酒屋さんの女将でドラマの中心人物です。
このドラマも戦争が引き金となっています。
ベルガの原作では、
サントゥッツァは脇役というほどでもない役柄なのですが、
オペラでは変えられてしまいましたね。
第二次世界大戦後にイタリアの婦人たちが、
「サントゥッツァと共に涙した」という、
頻繫に耳にしないまでも、戦後、
時折あった話ではあったのでしょう。
Tenore BENIAMINO GIGLI - Cavalleria rusticana - Mamma, quel vino è generoso - (1919)
マンマ、いい葡萄酒に酔わされた
カーヴァ・デ・ティレーニの、
1人の女性の慈悲と惻隠のお話です。
女性の名はルチーア・ピサーピア、、
彼女はマンマ・ルチーアと呼ばれます。
第二次世界大戦が、今や終わろうとする頃の1943年、
容赦なく降りかかる米軍のB24の爆撃によって、ドイツの
ヘルマンゲーリング部隊は多数の兵士が死に至り、
町は破壊され、
生き残った部隊は死んだ仲間を放置して
退去してしまいました。
無数のドイツの若者たちが、列をなして死に行くのを
目の当たりにしたマンマ・ルチーアは、
「敗戦を超えるのは人間性だ」と解し、
埋葬を決意します。
戦争に散った700人の遺体を身元確認し、
何百もの個人の持ち物を取り戻しました。
フランチェスコ三次修道会のコースを修了していた彼女は、
埋葬されていない遺体を尊びながら、
ヘルメット、長靴、破れた軍服を遺体と共に
固定釘で埋葬の準備を始めました。
彼女は連合司令部に手紙を書きます。
「身元が分からない遺体の埋葬を許可して欲しい」。
司令部は、しかし「埋葬は市の役割だ」、との返事。
ルチーアは諦めることなく、カーヴァの市長に頼み込み、
サレルノ知事に願い出ました。そうして知事から許可が下り、
2人の墓掘り人夫が充てがわれました。
ルチーアが埋葬したのは、ドイツ人ばかりでなく、
アングロアメリカ人、マロッコ人、ポーランド人もいました。
ルチーアはただ1人で遺体の配慮、埋葬をしたのです。
彼女は軍服や国旗を目に止めませんでした。
1951年、イタリアの法律が変わりました。
戦争期間に亡くなった兵士と民間人の遺体の
人口調査と配置のための対策がなされるようになりました。
“Il Mattino” “L’Osservatore” “Il Corriere della sera”
といった大手新聞、ドイツの定期刊行誌によって、
彼女の活動は、すぐに人々に知られるところとなり、
ニュースが世界を駆け巡りました。
ローマ法王、ピオXII世から銀のメダルが贈られ、
また、ドイツ伍長の遺体を発見したところにより、
ドイツ連邦共和国から功労賞グランデクロスが贈られました。
1959年にはイタリア共和国から共和国総帥名誉賞が付与され、
彼女はサレルノ名誉市民となりました。
ジュゼッペ・マロッタが「母たち」というエッセイを収集し、
その中で彼女をこう描写しています。
「勇気ある女性、彼女はハイブリッドだ」。
(ハイブリッドというのは車に関してよく使われる言葉ですが、
この場合、ジェネラリスト、
様々な分野の知識や能力を持った人ということでしょう)
マロッタは、また「人々は、彼女の寡黙で慎ましい、謙虚で無垢な性情と
庶民としての判断に打たれたのでしょう」
「無邪気さ、飾り気のない純粋さ、そして厳格さ、類ない戦術、
出来事の整理の仕方の素晴らしさ」、
「夫の内気な干渉を拒否し、しかし彼女はいつもは柔和で、
そして誇りがありました」。
1982年、マンマ・ルチーアは天に召されました。享年95歳でした。
ニュースを聞いた、時の大統領、サンドロ・ペルティーニは
カーヴァ市長への手紙の中で、
「愛と連体認識の価値感は人間形成の基本だということを
知らしめた、マンマ・ルチーアの逝去の痛みに打たれました」
マンマ・ルチーアで連想しますのは、
「カヴァレリア・ルスティカーナ」に登場する
マンマ・ルチーアです。
トゥリドゥの母親で、村人たちから、
「マンマ・ルチーア」と呼ばれています。
居酒屋さんの女将でドラマの中心人物です。
このドラマも戦争が引き金となっています。
ベルガの原作では、
サントゥッツァは脇役というほどでもない役柄なのですが、
オペラでは変えられてしまいましたね。
第二次世界大戦後にイタリアの婦人たちが、
「サントゥッツァと共に涙した」という、
頻繫に耳にしないまでも、戦後、
時折あった話ではあったのでしょう。
Tenore BENIAMINO GIGLI - Cavalleria rusticana - Mamma, quel vino è generoso - (1919)
マンマ、いい葡萄酒に酔わされた
2021.05.05
1821年5月5日 200年前の今日、ナポレオン・ボナパルトが
天に召されました。
ナポレオンに捧げられた数多くの曲の中から、
やはり筆頭に上がるのは、
ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄(エロイカ)」でしょう。
こちらです。
Beethoven: Symphony no. 3 in E flat major "Eroica", op. 55
今日は子供の日でもありますので「鯉のぼり」です。
鯉のぼり(いらかの・・・)
疲れを知らずに滝登りに挑んだ鯉が、登竜門に到着して渡ると
永遠不滅の龍となる。という古代中国から伝わった伝説です。
黄河上流の滝(激しい流れ)を登り、
登竜門に辿り着いて渡った鯉は龍となる。
しかし実際には、登るのは産卵のためのお母さん鯉なので、
子供と親のお節句でもあります。
これからの世代には老若男女とも、
鯉のような雄々しさが必要となりましょうから、
「鯉のぼり」です。
お柏餅も美味しそうですね。
あんこの他にお味噌を入れたのもあります。
またまた、加筆して参ります。
5月七日
ナポレオン贔屓だったベートーヴェンが、
ナポレオンが皇帝の地位に就くや否や
「彼も俗物だった!」と失望して、
初め「ボナパルト」というタイトルだった
楽譜の表紙を破り捨て、
「ある偉大な魂に捧ぐ」と書き換えた、この話は
知られているところかもしれません。
どうしてナポレオンに失望したのかというと、
民主主義、共和制の権化であったように見えた彼が、
皇帝という最も高い地位に就いてしまったからです。
ベートーヴェンが生きたのは、フランス革命と
ナポレオンによってなされた一連の戦争の時代でした。
ナポレオンは、フランス革命を、外国の干渉から守るための
革命防衛戦争として始めましたが、
次第に、革命の理念の拡大、のための戦争、
侵略戦争へと変質してしまいました。
ベートーヴェンは熱い民主主義者でした。
この時代に民主主義を支持するのは、ご尤もだと思います。
しかし、ベートーヴェンの音楽は
貴族によって培われたものだと考えます。
ハイドン、サリエリ、モーツァルトも然りですが、
粗野なベートーヴェンに、深い教養と仁愛を与えたのは
貴族でした。運が良かったのだと思います。
貴族の中の良い人間に出会えたのでしょう。
そして、彼が恋するのはいつも貴族の女性たちでした。
想像するに素敵な、素晴らしい女性たちだったのでしょうね。
貴族が造り出した社会の雰囲気、建物、文化が
ベートーヴェンの音楽に反映されているのだと、
私は考えます。
「エロイカ」は少々長いけれど、
区切ってお聴きになってみてください。
第一楽章~第四楽章。
当時の和音の規則を無視しているので、
「パストラーレ」と共に、ロマン派への先駆け
と言われます。
チェロで登場する「英雄」のテーマは変ホ長調、♭が3つ。
E♭から始まります。
変ホ長調は、ワグナーの「ニーベルン グの指環」に登場する
英雄ジークフリートの動機、
R.シュトラウスの「英雄の生涯」にも使われている調です。
変ホ長調は「英雄的」な性格を持つことで後世に
影響を与えたのでしょう。
またまた、続くと思います。
5月8日
ベートーヴェンを知らない人は少ないと思うけれど、
ナポレオンを知らない人も少ないでしょう。
ご存知でありましょうことを、つらつらと書いて行きます。
1769年8月15日にコルシカ島で生まれました。
コルシカというのは複雑な国で、
様々なところから侵略され、ジェノヴァの植民地として
長い間統治されている時に、フランス軍、オスマン帝国軍が
上陸して来ました。
ジェノヴァとフランスで取り合いっこになり、
(ナポレオンが生まれる前です)
結局、フランス領となり、併合され、現在でも続いています。
イタリア人を先祖に持つナポレオン家はフランスにくら替えし、
ナポレオンはフランスの陸軍学校砲兵科で、大砲術を
学びました。
後の、軍人、革命家、皇帝としての推移はご存知かと思います。
豊臣秀吉が「人たらし」と言われたそうですね。
「人たらし」と言うと人聞きが悪いですが、
カリスマ性もあったのでしょうね。
ナポレオンも「人たらし」ではないのでしょうけれど、
部下の兵士たちにとても愛されました。
ウィーンがフランス支配下に置かれた、1815年の頃に
ウィーン歌劇場で「運命」を演奏したところ、
音楽の終わりにナポレオン兵士たちが一斉に立ち上がり
「この曲は閣下だ!」と興奮して叫び、拍手を送ったのだそうです。
ベートーヴェンの「運命」は、
扉を叩いた運命が雷雨を呼び起こし、
しかし最後には勝利を凱歌します。
ちょっとやらなければならない用事があるので、
続きはまた後ほど。
ロシア遠征でロシア軍にしてやられ、ヨーロッパ連合軍にも敗れ
エルバ島に流刑となりました。
12年間に渡るナポレオンの活動に終止符が打たれました。
連合軍は戦後処理を行うためにウィーンにて
ウィーン会議を開催します。
しかし、連合軍は領土の取り合いっこで、この会議は纏まらず、
『会議は踊る、されど進まず』で、
舞踏会だけが盛り上がるという状態でした。
会議は踊る.1 (1931) Der Kongress Tanzt. リリアン.ハーヴェイ. Lilian Harvey.
こちら、1931年のドイツのオペレッタ映画です。
日本では1934年に配給されました。
脳天気な人たちですね。
私も脳天気だ。
ナポレオン兵士が「運命」に感動したのは、
1815年ではない。1814年にウィーン会議が開かれたので、
それ以前ということになります。
「運命」初演が1808年なので、1808~1811年の事となります。
この会議のドサクサに紛れて、
エルバ島から脱出したナポレオンは、また返り咲こう、と
パリに戻ります。
「100日天下」を取ったものの、イギリス、プロイセン連合軍との、
ワーテルローの戦いに敗れて退位。
セントヘレナ島で最期を迎えました。
しかし、胆力がありますね。
享年52歳の間に70戦以上をこなし、様々なことを発足させ、
民衆に影響を与えました。
ナポレオン昇天後の1815年、パリはまだ混沌としていました。
その時の社会を描いたのが、ヴィクトル・ユーゴーの
「レ・ミゼラブル」(あゝ無情)です。
随分と前に(私の話は昔のことばかりで)
「ナポレオンの生涯」と「あゝ無情」を同時期に
TVドラマ放映しました。
「あゝ無情」の意地悪旅宿亭主役がナポレオンに扮し、
近所のおっさんといった風情で、
あゝ、ナポレオンもこんな感じだったんだろうな、と。
死の床で、ナポレオンが一人、みすぼらしい台に仰向けになり、
幼少期、青年期、総帥、皇帝となった自分、数々の戦いを想い出し、
目を閉じると、彼の足下の床に一匹のネズミが現れて、
静かに餌を探し回る、それが最後の場面でした。
胃ガンでした。彼の父も同じ病気でした。
ヒ素で殺害されたということはないそうです。
髪の毛の染料にヒ素が少量、使われたのだそうです。
背が低かったと言われますが、彼の時代の平均身長よりも3cm高い、
168cmあったそうです。
ボナパルトが苗字なので、先にナポレオン家と書きましたが
ボナパルト家ということになります。
天に召されました。
ナポレオンに捧げられた数多くの曲の中から、
やはり筆頭に上がるのは、
ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄(エロイカ)」でしょう。
こちらです。
Beethoven: Symphony no. 3 in E flat major "Eroica", op. 55
今日は子供の日でもありますので「鯉のぼり」です。
鯉のぼり(いらかの・・・)
疲れを知らずに滝登りに挑んだ鯉が、登竜門に到着して渡ると
永遠不滅の龍となる。という古代中国から伝わった伝説です。
黄河上流の滝(激しい流れ)を登り、
登竜門に辿り着いて渡った鯉は龍となる。
しかし実際には、登るのは産卵のためのお母さん鯉なので、
子供と親のお節句でもあります。
これからの世代には老若男女とも、
鯉のような雄々しさが必要となりましょうから、
「鯉のぼり」です。
お柏餅も美味しそうですね。
あんこの他にお味噌を入れたのもあります。
またまた、加筆して参ります。
5月七日
ナポレオン贔屓だったベートーヴェンが、
ナポレオンが皇帝の地位に就くや否や
「彼も俗物だった!」と失望して、
初め「ボナパルト」というタイトルだった
楽譜の表紙を破り捨て、
「ある偉大な魂に捧ぐ」と書き換えた、この話は
知られているところかもしれません。
どうしてナポレオンに失望したのかというと、
民主主義、共和制の権化であったように見えた彼が、
皇帝という最も高い地位に就いてしまったからです。
ベートーヴェンが生きたのは、フランス革命と
ナポレオンによってなされた一連の戦争の時代でした。
ナポレオンは、フランス革命を、外国の干渉から守るための
革命防衛戦争として始めましたが、
次第に、革命の理念の拡大、のための戦争、
侵略戦争へと変質してしまいました。
ベートーヴェンは熱い民主主義者でした。
この時代に民主主義を支持するのは、ご尤もだと思います。
しかし、ベートーヴェンの音楽は
貴族によって培われたものだと考えます。
ハイドン、サリエリ、モーツァルトも然りですが、
粗野なベートーヴェンに、深い教養と仁愛を与えたのは
貴族でした。運が良かったのだと思います。
貴族の中の良い人間に出会えたのでしょう。
そして、彼が恋するのはいつも貴族の女性たちでした。
想像するに素敵な、素晴らしい女性たちだったのでしょうね。
貴族が造り出した社会の雰囲気、建物、文化が
ベートーヴェンの音楽に反映されているのだと、
私は考えます。
「エロイカ」は少々長いけれど、
区切ってお聴きになってみてください。
第一楽章~第四楽章。
当時の和音の規則を無視しているので、
「パストラーレ」と共に、ロマン派への先駆け
と言われます。
チェロで登場する「英雄」のテーマは変ホ長調、♭が3つ。
E♭から始まります。
変ホ長調は、ワグナーの「ニーベルン グの指環」に登場する
英雄ジークフリートの動機、
R.シュトラウスの「英雄の生涯」にも使われている調です。
変ホ長調は「英雄的」な性格を持つことで後世に
影響を与えたのでしょう。
またまた、続くと思います。
5月8日
ベートーヴェンを知らない人は少ないと思うけれど、
ナポレオンを知らない人も少ないでしょう。
ご存知でありましょうことを、つらつらと書いて行きます。
1769年8月15日にコルシカ島で生まれました。
コルシカというのは複雑な国で、
様々なところから侵略され、ジェノヴァの植民地として
長い間統治されている時に、フランス軍、オスマン帝国軍が
上陸して来ました。
ジェノヴァとフランスで取り合いっこになり、
(ナポレオンが生まれる前です)
結局、フランス領となり、併合され、現在でも続いています。
イタリア人を先祖に持つナポレオン家はフランスにくら替えし、
ナポレオンはフランスの陸軍学校砲兵科で、大砲術を
学びました。
後の、軍人、革命家、皇帝としての推移はご存知かと思います。
豊臣秀吉が「人たらし」と言われたそうですね。
「人たらし」と言うと人聞きが悪いですが、
カリスマ性もあったのでしょうね。
ナポレオンも「人たらし」ではないのでしょうけれど、
部下の兵士たちにとても愛されました。
ウィーンがフランス支配下に置かれた、1815年の頃に
ウィーン歌劇場で「運命」を演奏したところ、
音楽の終わりにナポレオン兵士たちが一斉に立ち上がり
「この曲は閣下だ!」と興奮して叫び、拍手を送ったのだそうです。
ベートーヴェンの「運命」は、
扉を叩いた運命が雷雨を呼び起こし、
しかし最後には勝利を凱歌します。
ちょっとやらなければならない用事があるので、
続きはまた後ほど。
ロシア遠征でロシア軍にしてやられ、ヨーロッパ連合軍にも敗れ
エルバ島に流刑となりました。
12年間に渡るナポレオンの活動に終止符が打たれました。
連合軍は戦後処理を行うためにウィーンにて
ウィーン会議を開催します。
しかし、連合軍は領土の取り合いっこで、この会議は纏まらず、
『会議は踊る、されど進まず』で、
舞踏会だけが盛り上がるという状態でした。
会議は踊る.1 (1931) Der Kongress Tanzt. リリアン.ハーヴェイ. Lilian Harvey.
こちら、1931年のドイツのオペレッタ映画です。
日本では1934年に配給されました。
脳天気な人たちですね。
私も脳天気だ。
ナポレオン兵士が「運命」に感動したのは、
1815年ではない。1814年にウィーン会議が開かれたので、
それ以前ということになります。
「運命」初演が1808年なので、1808~1811年の事となります。
この会議のドサクサに紛れて、
エルバ島から脱出したナポレオンは、また返り咲こう、と
パリに戻ります。
「100日天下」を取ったものの、イギリス、プロイセン連合軍との、
ワーテルローの戦いに敗れて退位。
セントヘレナ島で最期を迎えました。
しかし、胆力がありますね。
享年52歳の間に70戦以上をこなし、様々なことを発足させ、
民衆に影響を与えました。
ナポレオン昇天後の1815年、パリはまだ混沌としていました。
その時の社会を描いたのが、ヴィクトル・ユーゴーの
「レ・ミゼラブル」(あゝ無情)です。
随分と前に(私の話は昔のことばかりで)
「ナポレオンの生涯」と「あゝ無情」を同時期に
TVドラマ放映しました。
「あゝ無情」の意地悪旅宿亭主役がナポレオンに扮し、
近所のおっさんといった風情で、
あゝ、ナポレオンもこんな感じだったんだろうな、と。
死の床で、ナポレオンが一人、みすぼらしい台に仰向けになり、
幼少期、青年期、総帥、皇帝となった自分、数々の戦いを想い出し、
目を閉じると、彼の足下の床に一匹のネズミが現れて、
静かに餌を探し回る、それが最後の場面でした。
胃ガンでした。彼の父も同じ病気でした。
ヒ素で殺害されたということはないそうです。
髪の毛の染料にヒ素が少量、使われたのだそうです。
背が低かったと言われますが、彼の時代の平均身長よりも3cm高い、
168cmあったそうです。
ボナパルトが苗字なので、先にナポレオン家と書きましたが
ボナパルト家ということになります。