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エロイカ

1821年5月5日 200年前の今日、ナポレオン・ボナパルトが
天に召されました。
ナポレオンに捧げられた数多くの曲の中から、
やはり筆頭に上がるのは、
ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄(エロイカ)」でしょう。
こちらです。
Beethoven: Symphony no. 3 in E flat major "Eroica", op. 55


今日は子供の日でもありますので「鯉のぼり」です。
鯉のぼり(いらかの・・・)

疲れを知らずに滝登りに挑んだ鯉が、登竜門に到着して渡ると
永遠不滅の龍となる。という古代中国から伝わった伝説です。
黄河上流の滝(激しい流れ)を登り、
登竜門に辿り着いて渡った鯉は龍となる。
しかし実際には、登るのは産卵のためのお母さん鯉なので、
子供と親のお節句でもあります。
これからの世代には老若男女とも、
鯉のような雄々しさが必要となりましょうから、
「鯉のぼり」です。
お柏餅も美味しそうですね。
あんこの他にお味噌を入れたのもあります。

またまた、加筆して参ります。

5月七日
ナポレオン贔屓だったベートーヴェンが、
ナポレオンが皇帝の地位に就くや否や
「彼も俗物だった!」と失望して、
初め「ボナパルト」というタイトルだった
楽譜の表紙を破り捨て、
「ある偉大な魂に捧ぐ」と書き換えた、この話は
知られているところかもしれません。
どうしてナポレオンに失望したのかというと、
民主主義、共和制の権化であったように見えた彼が、
皇帝という最も高い地位に就いてしまったからです。
ベートーヴェンが生きたのは、フランス革命と
ナポレオンによってなされた一連の戦争の時代でした。
ナポレオンは、フランス革命を、外国の干渉から守るための
革命防衛戦争として始めましたが、
次第に、革命の理念の拡大、のための戦争、
侵略戦争へと変質してしまいました。

ベートーヴェンは熱い民主主義者でした。
この時代に民主主義を支持するのは、ご尤もだと思います。
しかし、ベートーヴェンの音楽は
貴族によって培われたものだと考えます。
ハイドン、サリエリ、モーツァルトも然りですが、
粗野なベートーヴェンに、深い教養と仁愛を与えたのは
貴族でした。運が良かったのだと思います。
貴族の中の良い人間に出会えたのでしょう。
そして、彼が恋するのはいつも貴族の女性たちでした。
想像するに素敵な、素晴らしい女性たちだったのでしょうね。
貴族が造り出した社会の雰囲気、建物、文化が
ベートーヴェンの音楽に反映されているのだと、
私は考えます。

「エロイカ」は少々長いけれど、
区切ってお聴きになってみてください。
第一楽章~第四楽章。
当時の和音の規則を無視しているので、
「パストラーレ」と共に、ロマン派への先駆け
と言われます。

チェロで登場する「英雄」のテーマは変ホ長調、♭が3つ。
E♭から始まります。
変ホ長調は、ワグナーの「ニーベルン グの指環」に登場する
英雄ジークフリートの動機、
R.シュトラウスの「英雄の生涯」にも使われている調です。
変ホ長調は「英雄的」な性格を持つことで後世に
影響を与えたのでしょう。

またまた、続くと思います。

5月8日
ベートーヴェンを知らない人は少ないと思うけれど、
ナポレオンを知らない人も少ないでしょう。
ご存知でありましょうことを、つらつらと書いて行きます。
1769年8月15日にコルシカ島で生まれました。
コルシカというのは複雑な国で、
様々なところから侵略され、ジェノヴァの植民地として
長い間統治されている時に、フランス軍、オスマン帝国軍が
上陸して来ました。
ジェノヴァとフランスで取り合いっこになり、
(ナポレオンが生まれる前です)
結局、フランス領となり、併合され、現在でも続いています。
イタリア人を先祖に持つナポレオン家はフランスにくら替えし、
ナポレオンはフランスの陸軍学校砲兵科で、大砲術を
学びました。
後の、軍人、革命家、皇帝としての推移はご存知かと思います。

豊臣秀吉が「人たらし」と言われたそうですね。
「人たらし」と言うと人聞きが悪いですが、
カリスマ性もあったのでしょうね。
ナポレオンも「人たらし」ではないのでしょうけれど、
部下の兵士たちにとても愛されました。

ウィーンがフランス支配下に置かれた、1815年の頃に
ウィーン歌劇場で「運命」を演奏したところ、
音楽の終わりにナポレオン兵士たちが一斉に立ち上がり
「この曲は閣下だ!」と興奮して叫び、拍手を送ったのだそうです。
ベートーヴェンの「運命」は、
扉を叩いた運命が雷雨を呼び起こし、
しかし最後には勝利を凱歌します。

  ちょっとやらなければならない用事があるので、
  続きはまた後ほど。

ロシア遠征でロシア軍にしてやられ、ヨーロッパ連合軍にも敗れ
エルバ島に流刑となりました。
12年間に渡るナポレオンの活動に終止符が打たれました。
連合軍は戦後処理を行うためにウィーンにて
ウィーン会議を開催します。

しかし、連合軍は領土の取り合いっこで、この会議は纏まらず、
『会議は踊る、されど進まず』で、
舞踏会だけが盛り上がるという状態でした。

会議は踊る.1 (1931) Der Kongress Tanzt. リリアン.ハーヴェイ. Lilian Harvey.
 こちら、1931年のドイツのオペレッタ映画です。
 日本では1934年に配給されました。

脳天気な人たちですね。
私も脳天気だ。
ナポレオン兵士が「運命」に感動したのは、
1815年ではない。1814年にウィーン会議が開かれたので、
それ以前ということになります。
「運命」初演が1808年なので、1808~1811年の事となります。

この会議のドサクサに紛れて、
エルバ島から脱出したナポレオンは、また返り咲こう、と
パリに戻ります。
「100日天下」を取ったものの、イギリス、プロイセン連合軍との、
ワーテルローの戦いに敗れて退位。
セントヘレナ島で最期を迎えました。

しかし、胆力がありますね。
享年52歳の間に70戦以上をこなし、様々なことを発足させ、
民衆に影響を与えました。

ナポレオン昇天後の1815年、パリはまだ混沌としていました。
その時の社会を描いたのが、ヴィクトル・ユーゴーの
「レ・ミゼラブル」(あゝ無情)です。

随分と前に(私の話は昔のことばかりで)
「ナポレオンの生涯」と「あゝ無情」を同時期に
TVドラマ放映しました。
「あゝ無情」の意地悪旅宿亭主役がナポレオンに扮し、
近所のおっさんといった風情で、
あゝ、ナポレオンもこんな感じだったんだろうな、と。
死の床で、ナポレオンが一人、みすぼらしい台に仰向けになり、
幼少期、青年期、総帥、皇帝となった自分、数々の戦いを想い出し、
目を閉じると、彼の足下の床に一匹のネズミが現れて、
静かに餌を探し回る、それが最後の場面でした。

胃ガンでした。彼の父も同じ病気でした。
ヒ素で殺害されたということはないそうです。
髪の毛の染料にヒ素が少量、使われたのだそうです。

背が低かったと言われますが、彼の時代の平均身長よりも3cm高い、
168cmあったそうです。

ボナパルトが苗字なので、先にナポレオン家と書きましたが
ボナパルト家ということになります。











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ミルティリおばさん

Author:ミルティリおばさん
住まいはイタリア、ペルージャです。
翻訳 フリーランサーです。

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