2021.09.24
1678年生まれのアントニオ・ヴィヴァルディは、
父親が理髪師兼ヴァイオリニストで、
幼少時には父さまからヴァイオリンを習いました。
おそらく、ジョヴァンニ・レグレンツィ(サン・マルコの楽長)
にも教授したでしょう。
殊のほか、ヴァイオリンが上手だった息子は、
しかし病気がちでした。(おそらく喘息を患っていました)
そこで両親は、「聖職者にしよう、それなら経済的な心配もないし」
と、教会に預けたのが、トンスラの歳の15歳。
トンスーラというのは、頭の脇の毛を残して真ん中をハゲにする、
真ん中を剃ってしまう髪型です。
丁度、日本の男の子の元服の歳に当たります。
元服というのは奈良時代に始まった支那伝来の習わしで、
髪を結い、衣服を改め、冠や烏帽子を着用しました。
江戸時代に入ると、ご存知の丁髷(ちょんまげ)頭。脇を残して
月代(さかやき)と言われる真ん中を剃ってしまう髪型ですね。
不思議な儀式ですけれど、これが似合う俳優さんたちは多いですね。
元服(成人の儀式)は11~16歳位に行われました。
トンスーラというのは聖職者だけが行うものですが、
元服の年頃に符号します。
「まだあげ初めし前髪の」というのは、額に垂らしていた髪を、
女の子が前髪を上げて髪を結う慣わし、12~3歳のころです。
藤村が詠った初恋は、
「林檎のもとに見えしとき
前に挿したる花櫛の
花ある君と思ひけり」
と続きます。
奥様になると、眉を剃りお歯黒の習慣というのは、ちょっと引きます。
ヴィヴァルディの肖像画は髪ふさふさ、あれは鬘です。
バッハもモーツァルトも、みんなウィッグでしょう。
バロック、クラッシク時代は。
あの時代の風習です。ところがベートーヴェンだけは変わり者で、
貴族から授与されたウィッグを被らなかった。地毛です。
ミサを挙げることになったヴィヴァルディは、
ミサの途中で、sacrestiaサクレスティーア(聖具室)に駆け込んで、
作曲の続きを書き、また、ミサを挙げに戻る、という何とも変わった
神父でした。その上、異端迫害にも文句を言ったことにより、
「もう、お前、ミサは挙げんでよろし。音楽だけやっときや」
と言われて、音楽のみに身を入れました。
しかして寛容な彼は身寄りのない少女たちを集めて、
(寛容というのは彼に限らず、教会システムが寛容であったわけです)
少女たちを集めて楽隊を作り、音楽を教え込みました。
パゾリーニは身寄りのない少年たちを集めて文化伝授をしました。
パゾリーニの話はまた次回。
それでは続きは、また、後日となります。
教会システムが寛容と書きましたが、寛容でもなかったですね。
12世紀前後から16、17世紀ぐらいまでの中世では、
異端者迫害や異教徒迫害をやってのけましたものね。
ヴァルド派やカタリ派、ドミニコ修道会などが、率先して
異端、異教審問に加担しました。
魔女裁判なんてのも行われました(男性もその中にいたのですが)。
女性医療従事者、科学研究者たちの集会に疑いを持った教会が、
彼女たちを審問したのでした。
集会というのは学術的情報交換だったわけです。ですから今では、
魔女と言われた人たちは知識人であったと言われます。
イタリアでは酷いことはしなかった、せいぜい苔刑だったそうです。
それにしても理不尽な酷い奴らですね。
現代では、教義に合わないからと言って自分以外の宗教者を
書類送検(被疑者が逮捕されない場合に行われるもので、
警察が検察庁に取り調べの内容や書類を渡す)や、
起訴などはできませんものね。
1年前の無人踏切横断を、よく持ち出して来れますね(これは笑う)
キリスト教にイチャモンを付けたということで、
ミサを挙げられなくなったヴィヴァルディは、
孤児となった少女たちを集めて
l’Ospedale di Pietà (慈善施設)で、音楽を教え込みます。
Ospedale オスぺダーレというのは現代では”病院”と訳されますのですが、
もともとは避難所、養護施設のことで、
“不寛容な“カトリックの慈愛の賜物なのでした。
この時代は、シングルマザーの多い時代でした。
儒教がなかったせいでしょうか。
しかし、平安 鎌倉 室町の時代はどうだったのでしょうね。
ヴィヴァルディが毎日のミサのために、
熱心に指導した少女たちは中々の優れもの演奏者で、
ヴェニスを旅したジャン・ジャック・ルソー(1712~1778 哲学者 作曲家 教育者)が
著書「告白」の中で、彼女たちの演奏を誉めています。
ルネッサンス・バロック当時の教会内には、
手すりのついたバルコニーがいくつかあり、例えばポリフォニー6声なら、
6個のバルコニーに分かれて、それぞれのパートを歌うのでした。
現代ですと1まとまりで歌うのが常です。
18世紀にはオペラの隆盛が始まりました。
ヴィヴァルディ、オペラ処女作は「Ottone in villa」
(ヴィラのオットーネ)です。
この後、ヴィヴァルディはマントヴァ教会の楽長として招かれて、
そそくさと出かけ作曲に励みます。
それではでは、また後日に。
ヴィヴァルディのマニフィカトです。
Vivaldi Magnificat RV 610 in G minor Jordi Savall Le Concert des Nations
ヴィヴァルディは第二次世界大戦まで、
音楽史の中で、あまり高い評価を得ていませんでした。
ストラビンスキーときた日には、
「ヴィヴァルディの音楽はワンパターン」なのだとか。
戦後、高評価を得るようになりました。
バッハの音楽も、メンデルスゾーンの出現まで
評価されなかったというより、知られていませんでしたものね。
そのバッハはヴィヴァルディから影響を受けて
数曲の音楽を書きました。
バッハはイタリア人作曲家たちからもインスピレーションを受けて
作曲に励んだ人です。
ヴィヴァルディは最盛期にはヨーロッパ中から、
音楽を委託されました。1723~1730年の頃です。
マントヴァの楽長をしていたヴィヴァルディは、
ミラノの歌劇場のためにも幾つかのオペラやカンタータを
書きます。この頃、「四季」を作曲しました。
ローマ法王に招かれ、ローマを訪れた後に
ヴェネツィアに帰ります。それが1725年のこと。
1728年にはトリエステでカルロ六世に謁見します。
オーストリア、ハプスブルク家のカルロ六世は
ヴィヴァルディの音楽を大層、愛したのだとか。
1730年、ウィーン、プラハを旅します。
「オリンピアデ」は、この頃の作品です。
彼のオペラはヴェネツィアでは、あまり愛されませんでした。
丁度、ヴェネツィア楽派からナポリ楽派に音楽の趣向が
変わる時期でした。
1740年、ウィーンに戻りましたが、ヨーロッパは戦時下で、
喘息と胃腸炎に苦しみつつ、貧困に喘ぎながら、
1741年7月、とある借家で亡くなりました。
ヴィヴァルディからコンチェルト形式を学んだバッハは、
ヴィヴァルディの幾つかの曲を、チェンバロとオルガンに
書き換えています。
ヴィヴァルディからの,クラヴィチェンバロの1曲です。
Bach Concerto BWV 978 (da Vivaldi)
影響を与えた音楽家はバッハに限らず、沢山いますが、
特にバッハが有名なので。
1900年代、フリッツ・クライスラーにも、
コンチェルト形式を伝えました。
クライスラー「愛の悲しみ」「愛の喜び」フリッツ・クライスラー (ヴァイオリン) ルップ (ピアノ) 1938 Kreisler Liebesleid Liebesfreud
添え事ながら、独裁者ムッソリーニは、
ヴィヴァルディ使用のヴァイオリン、アマーティを所持していました。
音楽文化に通じていたのですね。
日本の政治を司る人たちも、銀座や六本木ばかりでなく、
日本の伝統文化に親しんで欲しいものです。
イタリア人は、ある意味、ムッソリーニに感謝しています。
「年金システムを導入したのはムッソリーニだ」と。
年金システムはドイツから導入されたものです。
父親が理髪師兼ヴァイオリニストで、
幼少時には父さまからヴァイオリンを習いました。
おそらく、ジョヴァンニ・レグレンツィ(サン・マルコの楽長)
にも教授したでしょう。
殊のほか、ヴァイオリンが上手だった息子は、
しかし病気がちでした。(おそらく喘息を患っていました)
そこで両親は、「聖職者にしよう、それなら経済的な心配もないし」
と、教会に預けたのが、トンスラの歳の15歳。
トンスーラというのは、頭の脇の毛を残して真ん中をハゲにする、
真ん中を剃ってしまう髪型です。
丁度、日本の男の子の元服の歳に当たります。
元服というのは奈良時代に始まった支那伝来の習わしで、
髪を結い、衣服を改め、冠や烏帽子を着用しました。
江戸時代に入ると、ご存知の丁髷(ちょんまげ)頭。脇を残して
月代(さかやき)と言われる真ん中を剃ってしまう髪型ですね。
不思議な儀式ですけれど、これが似合う俳優さんたちは多いですね。
元服(成人の儀式)は11~16歳位に行われました。
トンスーラというのは聖職者だけが行うものですが、
元服の年頃に符号します。
「まだあげ初めし前髪の」というのは、額に垂らしていた髪を、
女の子が前髪を上げて髪を結う慣わし、12~3歳のころです。
藤村が詠った初恋は、
「林檎のもとに見えしとき
前に挿したる花櫛の
花ある君と思ひけり」
と続きます。
奥様になると、眉を剃りお歯黒の習慣というのは、ちょっと引きます。
ヴィヴァルディの肖像画は髪ふさふさ、あれは鬘です。
バッハもモーツァルトも、みんなウィッグでしょう。
バロック、クラッシク時代は。
あの時代の風習です。ところがベートーヴェンだけは変わり者で、
貴族から授与されたウィッグを被らなかった。地毛です。
ミサを挙げることになったヴィヴァルディは、
ミサの途中で、sacrestiaサクレスティーア(聖具室)に駆け込んで、
作曲の続きを書き、また、ミサを挙げに戻る、という何とも変わった
神父でした。その上、異端迫害にも文句を言ったことにより、
「もう、お前、ミサは挙げんでよろし。音楽だけやっときや」
と言われて、音楽のみに身を入れました。
しかして寛容な彼は身寄りのない少女たちを集めて、
(寛容というのは彼に限らず、教会システムが寛容であったわけです)
少女たちを集めて楽隊を作り、音楽を教え込みました。
パゾリーニは身寄りのない少年たちを集めて文化伝授をしました。
パゾリーニの話はまた次回。
それでは続きは、また、後日となります。
教会システムが寛容と書きましたが、寛容でもなかったですね。
12世紀前後から16、17世紀ぐらいまでの中世では、
異端者迫害や異教徒迫害をやってのけましたものね。
ヴァルド派やカタリ派、ドミニコ修道会などが、率先して
異端、異教審問に加担しました。
魔女裁判なんてのも行われました(男性もその中にいたのですが)。
女性医療従事者、科学研究者たちの集会に疑いを持った教会が、
彼女たちを審問したのでした。
集会というのは学術的情報交換だったわけです。ですから今では、
魔女と言われた人たちは知識人であったと言われます。
イタリアでは酷いことはしなかった、せいぜい苔刑だったそうです。
それにしても理不尽な酷い奴らですね。
現代では、教義に合わないからと言って自分以外の宗教者を
書類送検(被疑者が逮捕されない場合に行われるもので、
警察が検察庁に取り調べの内容や書類を渡す)や、
起訴などはできませんものね。
1年前の無人踏切横断を、よく持ち出して来れますね(これは笑う)
キリスト教にイチャモンを付けたということで、
ミサを挙げられなくなったヴィヴァルディは、
孤児となった少女たちを集めて
l’Ospedale di Pietà (慈善施設)で、音楽を教え込みます。
Ospedale オスぺダーレというのは現代では”病院”と訳されますのですが、
もともとは避難所、養護施設のことで、
“不寛容な“カトリックの慈愛の賜物なのでした。
この時代は、シングルマザーの多い時代でした。
儒教がなかったせいでしょうか。
しかし、平安 鎌倉 室町の時代はどうだったのでしょうね。
ヴィヴァルディが毎日のミサのために、
熱心に指導した少女たちは中々の優れもの演奏者で、
ヴェニスを旅したジャン・ジャック・ルソー(1712~1778 哲学者 作曲家 教育者)が
著書「告白」の中で、彼女たちの演奏を誉めています。
ルネッサンス・バロック当時の教会内には、
手すりのついたバルコニーがいくつかあり、例えばポリフォニー6声なら、
6個のバルコニーに分かれて、それぞれのパートを歌うのでした。
現代ですと1まとまりで歌うのが常です。
18世紀にはオペラの隆盛が始まりました。
ヴィヴァルディ、オペラ処女作は「Ottone in villa」
(ヴィラのオットーネ)です。
この後、ヴィヴァルディはマントヴァ教会の楽長として招かれて、
そそくさと出かけ作曲に励みます。
それではでは、また後日に。
ヴィヴァルディのマニフィカトです。
Vivaldi Magnificat RV 610 in G minor Jordi Savall Le Concert des Nations
ヴィヴァルディは第二次世界大戦まで、
音楽史の中で、あまり高い評価を得ていませんでした。
ストラビンスキーときた日には、
「ヴィヴァルディの音楽はワンパターン」なのだとか。
戦後、高評価を得るようになりました。
バッハの音楽も、メンデルスゾーンの出現まで
評価されなかったというより、知られていませんでしたものね。
そのバッハはヴィヴァルディから影響を受けて
数曲の音楽を書きました。
バッハはイタリア人作曲家たちからもインスピレーションを受けて
作曲に励んだ人です。
ヴィヴァルディは最盛期にはヨーロッパ中から、
音楽を委託されました。1723~1730年の頃です。
マントヴァの楽長をしていたヴィヴァルディは、
ミラノの歌劇場のためにも幾つかのオペラやカンタータを
書きます。この頃、「四季」を作曲しました。
ローマ法王に招かれ、ローマを訪れた後に
ヴェネツィアに帰ります。それが1725年のこと。
1728年にはトリエステでカルロ六世に謁見します。
オーストリア、ハプスブルク家のカルロ六世は
ヴィヴァルディの音楽を大層、愛したのだとか。
1730年、ウィーン、プラハを旅します。
「オリンピアデ」は、この頃の作品です。
彼のオペラはヴェネツィアでは、あまり愛されませんでした。
丁度、ヴェネツィア楽派からナポリ楽派に音楽の趣向が
変わる時期でした。
1740年、ウィーンに戻りましたが、ヨーロッパは戦時下で、
喘息と胃腸炎に苦しみつつ、貧困に喘ぎながら、
1741年7月、とある借家で亡くなりました。
ヴィヴァルディからコンチェルト形式を学んだバッハは、
ヴィヴァルディの幾つかの曲を、チェンバロとオルガンに
書き換えています。
ヴィヴァルディからの,クラヴィチェンバロの1曲です。
Bach Concerto BWV 978 (da Vivaldi)
影響を与えた音楽家はバッハに限らず、沢山いますが、
特にバッハが有名なので。
1900年代、フリッツ・クライスラーにも、
コンチェルト形式を伝えました。
クライスラー「愛の悲しみ」「愛の喜び」フリッツ・クライスラー (ヴァイオリン) ルップ (ピアノ) 1938 Kreisler Liebesleid Liebesfreud
添え事ながら、独裁者ムッソリーニは、
ヴィヴァルディ使用のヴァイオリン、アマーティを所持していました。
音楽文化に通じていたのですね。
日本の政治を司る人たちも、銀座や六本木ばかりでなく、
日本の伝統文化に親しんで欲しいものです。
イタリア人は、ある意味、ムッソリーニに感謝しています。
「年金システムを導入したのはムッソリーニだ」と。
年金システムはドイツから導入されたものです。
2021.09.13
北朝鮮で飛ばしましたよ、長距離巡行ミサイル。
北朝鮮領海内に飛ばしたそうです。
朝鮮中央通信社の報道です。
米国が心配。韓国や日本を。
騒ぎ始めると思います、特にウヨちゃんたちが。
今、この時期に何故?
何故、五輪開催時に飛ばさなかったかな?
ここを、よーく考えましょう。
今まで、安倍政権が苦境に立った時に
飛んで来ましたよね。
そして今も。
総裁選危うし→日本は、より一層の防衛が必要だ
→高市早苗は天照大御神だ→日本を護らねばならない
→戦闘的な総理が必要だ→ウヨちゃん大騒ぎ。
と、この流れでしょう。
総裁選以上のお祭り五輪時に、どうして飛ばさなかったか?s
それともう1つ、統一教会信者の安部ちゃんは
韓国とも北朝鮮ともズブズブですよ。。。
大部、総裁選の流れが変わって来たようですね。
一月万冊です。佐藤さんは流石に読みが深くて、
面白いです。長いので区切ってご覧ください。
安倍麻生の敗北濃厚。自民党総裁選で若手議員が決起!老人政治支配にNO!河野太郎総裁と石破茂幹事長も見えてきた?挙党一致で臨む選挙。元朝日新聞記
こちらはリテラから。
安倍晋三が「統一教会」イベントでトランプと共演! 前総理としてカルトの総裁を絶賛、同性婚や夫婦別姓を「偏った価値観」と攻撃
コメントの返信をいたしませんが、
いつもどうも有り難うございます。
銭形の勘次さん、
通航人Yさん、
大岡の忠相さん、
教えていただくことが多いです。
トピックとコメントと、フォントが同じなので、
トピックの続きのようにお読みください。
御皇室問題です。
清水さん同様、私も皇室には興味がないのですが・・・
マスコミを牛耳る自民党は、何故、今、マスコミの餌食となっている
天皇家を、マスコミをもって護って差し上げないのか?
こう仰る清水さんと同意見です。
女性週刊誌は「御皇室」をトピックスにすると
売れ行きが上々なのだそうです。
愛国の志士、天皇家を崇拝して仰ぎみるかた達は、
いまこそ御守りすべきでしょう。
天皇家の危機で笑う安倍と菅。眞子さま1年半以上前から一時金1億3700万円辞退・関連儀式を行わない意向示される
自民党は皇室を利用するが守らない。眞子様&小室さんの結婚問題。小室さん経歴詐称?総裁選でも概念として語られず守られない皇族。憲法改正案では元
2つとも一月万冊です。
長いですが、区切ってご覧ください。
「人間は自らの歴史を造るのだが、
自ら選んだ自由な断片から造るのではなく、
伝統的な、与えられた状況のもとで造るのである。
あらゆる世代の伝統は、生きているものの額の上に、
悪夢のようにのしかかる。
そして人間が自らを変革し、ものごとを変革し、
今までそこになかったものを造ろうとする時、
まさに革命の危機のこうした時代において、
人間は過去の精神を、自らの仕事のために呼び出し、
こうした旧い価値ある衣服と、借り物の言葉で、
新しい世界史的舞台を演出するべく、
彼らの名前、秩序の言葉、衣服を借りてくるのである」
byバルザック
こちらは、新しい一月万冊です。
総裁選立候補の政策。
安倍麻生の陰謀。河野太郎総裁阻止!高市早苗のネット工作が酷い。自民党総裁選最大の争点は核燃料サイクル・コロナ対策・年金問題だ。
北朝鮮領海内に飛ばしたそうです。
朝鮮中央通信社の報道です。
米国が心配。韓国や日本を。
騒ぎ始めると思います、特にウヨちゃんたちが。
今、この時期に何故?
何故、五輪開催時に飛ばさなかったかな?
ここを、よーく考えましょう。
今まで、安倍政権が苦境に立った時に
飛んで来ましたよね。
そして今も。
総裁選危うし→日本は、より一層の防衛が必要だ
→高市早苗は天照大御神だ→日本を護らねばならない
→戦闘的な総理が必要だ→ウヨちゃん大騒ぎ。
と、この流れでしょう。
総裁選以上のお祭り五輪時に、どうして飛ばさなかったか?s
それともう1つ、統一教会信者の安部ちゃんは
韓国とも北朝鮮ともズブズブですよ。。。
大部、総裁選の流れが変わって来たようですね。
一月万冊です。佐藤さんは流石に読みが深くて、
面白いです。長いので区切ってご覧ください。
安倍麻生の敗北濃厚。自民党総裁選で若手議員が決起!老人政治支配にNO!河野太郎総裁と石破茂幹事長も見えてきた?挙党一致で臨む選挙。元朝日新聞記
こちらはリテラから。
安倍晋三が「統一教会」イベントでトランプと共演! 前総理としてカルトの総裁を絶賛、同性婚や夫婦別姓を「偏った価値観」と攻撃
コメントの返信をいたしませんが、
いつもどうも有り難うございます。
銭形の勘次さん、
通航人Yさん、
大岡の忠相さん、
教えていただくことが多いです。
トピックとコメントと、フォントが同じなので、
トピックの続きのようにお読みください。
御皇室問題です。
清水さん同様、私も皇室には興味がないのですが・・・
マスコミを牛耳る自民党は、何故、今、マスコミの餌食となっている
天皇家を、マスコミをもって護って差し上げないのか?
こう仰る清水さんと同意見です。
女性週刊誌は「御皇室」をトピックスにすると
売れ行きが上々なのだそうです。
愛国の志士、天皇家を崇拝して仰ぎみるかた達は、
いまこそ御守りすべきでしょう。
天皇家の危機で笑う安倍と菅。眞子さま1年半以上前から一時金1億3700万円辞退・関連儀式を行わない意向示される
自民党は皇室を利用するが守らない。眞子様&小室さんの結婚問題。小室さん経歴詐称?総裁選でも概念として語られず守られない皇族。憲法改正案では元
2つとも一月万冊です。
長いですが、区切ってご覧ください。
「人間は自らの歴史を造るのだが、
自ら選んだ自由な断片から造るのではなく、
伝統的な、与えられた状況のもとで造るのである。
あらゆる世代の伝統は、生きているものの額の上に、
悪夢のようにのしかかる。
そして人間が自らを変革し、ものごとを変革し、
今までそこになかったものを造ろうとする時、
まさに革命の危機のこうした時代において、
人間は過去の精神を、自らの仕事のために呼び出し、
こうした旧い価値ある衣服と、借り物の言葉で、
新しい世界史的舞台を演出するべく、
彼らの名前、秩序の言葉、衣服を借りてくるのである」
byバルザック
こちらは、新しい一月万冊です。
総裁選立候補の政策。
安倍麻生の陰謀。河野太郎総裁阻止!高市早苗のネット工作が酷い。自民党総裁選最大の争点は核燃料サイクル・コロナ対策・年金問題だ。
2021.09.05
ピエトロ・メタスタージオ(1698年~1782)という宮廷詩人が、
(イタリア人ですけれども、ウィーンに住んでいたこともある)、
ウィーン宮廷詩人のメタスタージオが、「オリンピアデ」という
詩の台本を書きまして、
アントニオ・カルダーラという作曲家が、
音楽を附してオペラの類の音楽劇としました(1733年のこと)
タイトルはOlimpìade オリンピアデ (オリンピック)
「ピ」にアクセントがありますのです。
早速、皆さんに好かれたこの台本は、
ヴィヴァルディ、ペルゴレージ、パイシエッロ、チマローザはじめ、
約60人ほどの音楽家にオペラとして作曲されました。
モーツァルト、ベートーヴェンも、全曲ではないですが、
演奏会用アリアとしてこのオペラの独唱曲を作っています。
舞台は古代ギリシャ、オリンピアがあるエリス地方で、
オリンピックが要となるオペラです。
オリンピックの始まりは、紀元前776年、
オリンピアはゼウス神の聖地であり、
オリンピア競技はゼウス神に捧げる競技祭でありました。
出場者はポリス(都市国家)の自由市民(ギリシャ人)に限られ、
優勝者にはオリーブの冠が授けられました。
(オリーブの冠というのは金銀銅よりも素敵に思えますけれど)
金銀銅を得たかた達には申し訳ないね。
紀元前8世紀のオリンピックは
貴族たち競技者が名誉のために戦いました。
市民は4等級に分かれていて、
1級が騎士、2級が貴族、3級が農民、4級が平民だそうです。
後にはポリスが民主化し競技者の階層が広がりました。
近代オリンピックは、フランスの教育学者ピエール・ド・クーベルタン男爵が
1896年にアテネで第1回大会を開催しました。
クーベルタンは
「スポーツを通じて平和な世界の実現に寄与する」、
「勝敗だけではなく、ルールを遵守し正々堂々と全力を尽くす」
「フェアプレーの精神」
「精神の発達にも寄与する芸術祭も含めてのオリンピック」
理念を掲げて推奨しました。
ク―ベルタンさん、今日の利権にまみれたオリンピックを見たら
何と思いますか。
パラリンピックの源は若く、1948年のロンドン大会でありましたが、
「パラリンピック」という名称が付いたのは、
1988年のソウル大会からだそうです。
ヴィヴァルディ作曲「オリンピアデ」
シンフォニア(序曲)
L'Olimpiade: Sinfonia / VIVALDI RV 725 (Autograph score)
ヴィヴァルディ手書きの楽譜だそうです。
第二幕から アミンタのアリア
Vivaldi - Siam Navi all'onde algendi; Cecilia Bartoli
チェチーリア・ガスディーアが歌っています。
ではなくて、チェチーリア・バルトリでした。
間違いすみません。
スイスに帰化したイタリア人メッゾソプラノです。
あふれ出る健康そのものの表情ですね。
昔は(ヴィヴァルディの時代は)
カストラートが歌いました。
美声の男の子が声変わりする前に、
大事なところを切ってしまうの。
すると、声は変わらず高いまま。
気の毒な・・・ と思うけれど、
シェイクスピアの舞台劇もそのようだったということで。
女性の出番が少なかった時代です。
続きがあります、また後日。
オリンピアデのあらすじ;
オリンピックが開催される都市オリンピアの地方エリスは、
多くの人で賑わっています。
王、クリステネが「勝利者にはわが娘、アリステアを褒美として取らす」
ということにより、
ギリシャ各地から王族の子息たちも集まって来ています。
ワーグナーの「マイスタージンガー」を思い浮かべます。
これは女性にとっての人権問題で、今ですと非難轟々ですかね。
半面、勝者エリートを婿にできると嬉しくもあるのかしら。
実はアリステアには双子の兄弟リーチダがいて、
いや、リーチダという名は後から付けられたので、
ご神託により生まれてすくに捨てられたのです。
「この子は父親を殺すだろう」という託宣により。
しかし実際は彼はクレタ島の王子として生きていました。
王の命令で殺される所を、
王の家臣アルカンドロの機転のおかげで
クレタ王の王子として育てられたのでした。
何も知らないリーチダは、「アリステアと結婚できる!」と
競技に参加します。「だけど、俺、スポーツ苦手なんだよな、
アリスは欲しいし・・・」
そこで、100戦100勝のスポーツ万能の親友、メガクレに頼みます。
「ねえ、メガクレ、俺の名で参加してよ」
「ええーっ!」(アリスは俺の恋人だし)と、メガクレはあたふたします。
しかし、メガはリーチダに恩がある。昔、命を助けられたのです。
そして無二の親友となったのです。
心乱しながらも承諾してしまいます。
リーチダにはかつて恋人がいました。
アルジェーネという名の彼女は、
リーチダの父に彼との仲を裂かれ羊飼いの
娘に身をやつしてエーリスに暮らしていました。
リーチダが競技に参加することを知った彼女は、
恋人の心変わりを嘆きます。
リーチダを名乗ったメガクレは競技に優勝
してしまいました。
メガはアリスにリーチダに嫁ぐように勧めて
自害しようとします。
リーチダの恋人アルジェーネの方はというと、
嫉妬に狂い、メガがリーチダの名を騙って
競技に出たことを王に言ってしまいます。
メガが死んだと思い込んだリーチダは、逆上して王を殺そうとし、
捕えられて死刑の宣告を受けます。
メガはしかし、救われていました。
メガとリーチダの友情に心打たれたアルジェーネは
身分を明かしてリーチダの身代わりに処刑されようとします。
が、彼女が持っていたリーチダからの愛の印の首飾り
からリーチダが実は王様クリステネが
亡き者としようとした息子であることが判明します。
(兄妹近親相関になるところでした)
民衆は「リーチダの罪は許された」と歌い、2 組の
恋人達はめでたしめでたしで幕となります。
長いわね、あらすじだけで1000字ぐらいです。
ヴィヴァルディのことを、もう少し書きたかったのですが。
残念無念また来週、来週にはならないです。
7人の登場人物中、
アミンタはアリスの教官(家庭教師)です。
第二幕のアリアは、やはり超絶技巧、
コロラトゥーラ(ころがし)で、コロを駆使しています。
カストラートというのは(現代ではいませんけれど)
コロラトゥーラが本領だったのですね。
キャスト;
クリステネ(王様) アリステア(その娘、王女様)
メガクレ(アリステアの恋人、アスリート)
リーチダ(アリステアの友人、実は王様の息子、アルジェーネの昔の恋人)
アルジェーネ(羊飼いの娘、リーチダを今も想う)
アミンタ(教官)
アルカンドロ(家臣)
メガクレとアミンタが、カストラート・ソプラノです。
筋骨隆々としたアスリートがソプラノねぇ。
アリステア、アルジェーネ、リーチダはコントラルトです。
この時代にはリーチダ(メガの友人)は女性が歌いました。
王様はテノールで、アルカンドロはバッソです。
メガクレはアリステアとの恋よりも、
リーチダへの恩義と友情を選びました。
漱石の「こころ」とは逆ですね。
「こころ」は名作ですけれど。
Vicenza in Lirica 2020, L’Olimpiade di Vivaldi al Teatro Olimpico
登場人物が紹介されています。
また少し宗教話をしますと、
クーベルタンは信仰心篤いイエズス会教徒で、
オリンピックこけら落しは、1896年4月6日、
Pasquetta 復活祭の次の日の「天使の月曜日」でした。
友達つながりということで、
タゴールが友人に贈った詩があります。
“Non nascondere il segreto del tuo cuore”
隠さないでおくれ、
心に抱く秘密を。
友よ!
私を信じて
私だけに話しておくれ。
お前は、羞じらい微笑む。
そっと話しておくれ、
私は耳でなく
心でそれを聞くから。
深い夜、
家は静寂(しじま)の中、
鳥は巣の中
眠りに落ちる。
躊躇いの涙と
揺れる微笑み、
苦悩と、はにかみの中で
話し給え、お前の秘密を。
(イタリア人ですけれども、ウィーンに住んでいたこともある)、
ウィーン宮廷詩人のメタスタージオが、「オリンピアデ」という
詩の台本を書きまして、
アントニオ・カルダーラという作曲家が、
音楽を附してオペラの類の音楽劇としました(1733年のこと)
タイトルはOlimpìade オリンピアデ (オリンピック)
「ピ」にアクセントがありますのです。
早速、皆さんに好かれたこの台本は、
ヴィヴァルディ、ペルゴレージ、パイシエッロ、チマローザはじめ、
約60人ほどの音楽家にオペラとして作曲されました。
モーツァルト、ベートーヴェンも、全曲ではないですが、
演奏会用アリアとしてこのオペラの独唱曲を作っています。
舞台は古代ギリシャ、オリンピアがあるエリス地方で、
オリンピックが要となるオペラです。
オリンピックの始まりは、紀元前776年、
オリンピアはゼウス神の聖地であり、
オリンピア競技はゼウス神に捧げる競技祭でありました。
出場者はポリス(都市国家)の自由市民(ギリシャ人)に限られ、
優勝者にはオリーブの冠が授けられました。
(オリーブの冠というのは金銀銅よりも素敵に思えますけれど)
金銀銅を得たかた達には申し訳ないね。
紀元前8世紀のオリンピックは
貴族たち競技者が名誉のために戦いました。
市民は4等級に分かれていて、
1級が騎士、2級が貴族、3級が農民、4級が平民だそうです。
後にはポリスが民主化し競技者の階層が広がりました。
近代オリンピックは、フランスの教育学者ピエール・ド・クーベルタン男爵が
1896年にアテネで第1回大会を開催しました。
クーベルタンは
「スポーツを通じて平和な世界の実現に寄与する」、
「勝敗だけではなく、ルールを遵守し正々堂々と全力を尽くす」
「フェアプレーの精神」
「精神の発達にも寄与する芸術祭も含めてのオリンピック」
理念を掲げて推奨しました。
ク―ベルタンさん、今日の利権にまみれたオリンピックを見たら
何と思いますか。
パラリンピックの源は若く、1948年のロンドン大会でありましたが、
「パラリンピック」という名称が付いたのは、
1988年のソウル大会からだそうです。
ヴィヴァルディ作曲「オリンピアデ」
シンフォニア(序曲)
L'Olimpiade: Sinfonia / VIVALDI RV 725 (Autograph score)
ヴィヴァルディ手書きの楽譜だそうです。
第二幕から アミンタのアリア
Vivaldi - Siam Navi all'onde algendi; Cecilia Bartoli
チェチーリア・ガスディーアが歌っています。
ではなくて、チェチーリア・バルトリでした。
間違いすみません。
スイスに帰化したイタリア人メッゾソプラノです。
あふれ出る健康そのものの表情ですね。
昔は(ヴィヴァルディの時代は)
カストラートが歌いました。
美声の男の子が声変わりする前に、
大事なところを切ってしまうの。
すると、声は変わらず高いまま。
気の毒な・・・ と思うけれど、
シェイクスピアの舞台劇もそのようだったということで。
女性の出番が少なかった時代です。
続きがあります、また後日。
オリンピアデのあらすじ;
オリンピックが開催される都市オリンピアの地方エリスは、
多くの人で賑わっています。
王、クリステネが「勝利者にはわが娘、アリステアを褒美として取らす」
ということにより、
ギリシャ各地から王族の子息たちも集まって来ています。
ワーグナーの「マイスタージンガー」を思い浮かべます。
これは女性にとっての人権問題で、今ですと非難轟々ですかね。
半面、勝者エリートを婿にできると嬉しくもあるのかしら。
実はアリステアには双子の兄弟リーチダがいて、
いや、リーチダという名は後から付けられたので、
ご神託により生まれてすくに捨てられたのです。
「この子は父親を殺すだろう」という託宣により。
しかし実際は彼はクレタ島の王子として生きていました。
王の命令で殺される所を、
王の家臣アルカンドロの機転のおかげで
クレタ王の王子として育てられたのでした。
何も知らないリーチダは、「アリステアと結婚できる!」と
競技に参加します。「だけど、俺、スポーツ苦手なんだよな、
アリスは欲しいし・・・」
そこで、100戦100勝のスポーツ万能の親友、メガクレに頼みます。
「ねえ、メガクレ、俺の名で参加してよ」
「ええーっ!」(アリスは俺の恋人だし)と、メガクレはあたふたします。
しかし、メガはリーチダに恩がある。昔、命を助けられたのです。
そして無二の親友となったのです。
心乱しながらも承諾してしまいます。
リーチダにはかつて恋人がいました。
アルジェーネという名の彼女は、
リーチダの父に彼との仲を裂かれ羊飼いの
娘に身をやつしてエーリスに暮らしていました。
リーチダが競技に参加することを知った彼女は、
恋人の心変わりを嘆きます。
リーチダを名乗ったメガクレは競技に優勝
してしまいました。
メガはアリスにリーチダに嫁ぐように勧めて
自害しようとします。
リーチダの恋人アルジェーネの方はというと、
嫉妬に狂い、メガがリーチダの名を騙って
競技に出たことを王に言ってしまいます。
メガが死んだと思い込んだリーチダは、逆上して王を殺そうとし、
捕えられて死刑の宣告を受けます。
メガはしかし、救われていました。
メガとリーチダの友情に心打たれたアルジェーネは
身分を明かしてリーチダの身代わりに処刑されようとします。
が、彼女が持っていたリーチダからの愛の印の首飾り
からリーチダが実は王様クリステネが
亡き者としようとした息子であることが判明します。
(兄妹近親相関になるところでした)
民衆は「リーチダの罪は許された」と歌い、2 組の
恋人達はめでたしめでたしで幕となります。
長いわね、あらすじだけで1000字ぐらいです。
ヴィヴァルディのことを、もう少し書きたかったのですが。
残念無念また来週、来週にはならないです。
7人の登場人物中、
アミンタはアリスの教官(家庭教師)です。
第二幕のアリアは、やはり超絶技巧、
コロラトゥーラ(ころがし)で、コロを駆使しています。
カストラートというのは(現代ではいませんけれど)
コロラトゥーラが本領だったのですね。
キャスト;
クリステネ(王様) アリステア(その娘、王女様)
メガクレ(アリステアの恋人、アスリート)
リーチダ(アリステアの友人、実は王様の息子、アルジェーネの昔の恋人)
アルジェーネ(羊飼いの娘、リーチダを今も想う)
アミンタ(教官)
アルカンドロ(家臣)
メガクレとアミンタが、カストラート・ソプラノです。
筋骨隆々としたアスリートがソプラノねぇ。
アリステア、アルジェーネ、リーチダはコントラルトです。
この時代にはリーチダ(メガの友人)は女性が歌いました。
王様はテノールで、アルカンドロはバッソです。
メガクレはアリステアとの恋よりも、
リーチダへの恩義と友情を選びました。
漱石の「こころ」とは逆ですね。
「こころ」は名作ですけれど。
Vicenza in Lirica 2020, L’Olimpiade di Vivaldi al Teatro Olimpico
登場人物が紹介されています。
また少し宗教話をしますと、
クーベルタンは信仰心篤いイエズス会教徒で、
オリンピックこけら落しは、1896年4月6日、
Pasquetta 復活祭の次の日の「天使の月曜日」でした。
友達つながりということで、
タゴールが友人に贈った詩があります。
“Non nascondere il segreto del tuo cuore”
隠さないでおくれ、
心に抱く秘密を。
友よ!
私を信じて
私だけに話しておくれ。
お前は、羞じらい微笑む。
そっと話しておくれ、
私は耳でなく
心でそれを聞くから。
深い夜、
家は静寂(しじま)の中、
鳥は巣の中
眠りに落ちる。
躊躇いの涙と
揺れる微笑み、
苦悩と、はにかみの中で
話し給え、お前の秘密を。